「あるヨギの自叙伝」が書いているところでは、ババジがラヒリ・マハサヤを自分のほらあなに迎え入れた時、彼は腹が減ったというラヒリに対して不思議な力でお皿に食べ物をいっぱいにして、「大抵の人は神の国では世俗的な欲求もかなえられるということを理解していない」と仰った。
運命からの自由ということはそういうことだと思う。
ある瞬間に、道を歩いていて、上から岩が転げ落ちてきたとして、もうこれは間違いなく死ぬことになる・・・普通は。
上から岩が落ちてくるというのも、避けることができない決まったことだろう。そしてその下に自分が通りかかるということも避けることのできない決まったことだろう。そしてその結果その人は死ぬ。
だが、その死ぬということは別段決まっていなくていいのではないか。
運命ということは一定の軌道を動くようなことで、それがより大きな法則に支えられている以上、変えようがないことなのだ。その日あなたは多分その場所に居合わせるだろう。しかし、それを超える何かの達成、何かの法則によって当然その運命によってもたらされるであろう帰結を変えることができると私は思う。
キリストは天国をからしだねや発酵するパンにたとえた。本当に小さな種であるものが、やがて大きくなって鳥が宿るほどになる。
たわわな実がなることによって、その実が違う法則をもたらす。自分の上に巨大な岩が落ちてきて、そこに居合わせても、それで押しつぶされるという当然の帰結を変えることができる。そして、岩が上に落ちてきてその人が生き残ったということがあったとしても、新聞もテレビもそれ以上追及しようとは思わない。何事もなかったかのようにものごとは続いていくだろう。
こんにちは、ネコです。
変えようがない運命、しかし、何かの法則によってその帰結を変えることが出来る。
本当にそうですね。
聖書の中で、主イエスは仰いました。
「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、
この山に向かって、ここから、あそこに移れ、と命じても、そのとおりになる。」
そしてまた、仰いました。
「天の国はからし種に似ている。人がこれをとって畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに
成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」
旧約の「コヘレト書」にも
朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな、とあります。
また、種を握りしめないで手を開け、ともあります。
神の国とは不思議なものですね。
帰結が変えられる。
ネコさん、
神の国は私たちの中に結ばれるべき実だと思います。
法則そのものを変えることはできない。違う法則、違う影響力を受けることができる、何らかの実体を私たち自身が持つことが重要だと思います。