キリスト教というと、どうもあれこれのことを取り上げて、お前はあれをしたから罪だ、これをしたから悪い、と罪を責めさいなむようなものだと思われているところがある。そしてとりわけ性的な問題が強調される傾向がある。
自分は前に「人を裁くな」という箇所について記事を書いた。本当は「人を」という言葉はない。福音書には単に「裁かれないように裁くな」「判断されないように判断するな」「決められないように決めるな」という意味合いのことが書いてあるだけで、そこには「他の人を」という言葉はない。
すると、これは道徳の問題ではないのである。道徳だと思ってやっている人々には有名なエホバの証人さんがいる。エホバさん、ちょっといかがわしい宗教団体さんと誰しも思っていると思うが、では「裁くな」と書いてあるのに裁判員やってしまっていいのですか?と聞かれると、普通になんとなく福音書を読んでいる人は戸惑ってしまう。
だけどこれは全然誤解なのです。他人を気にして正しいことができないのが正しいこと、みたいな意味では全くない。「裁かない」ということは「人の子は盗人のようにやってくるから目覚めていろ」ということと全く同じことなのです。今、お前は裁判官でも村長さんでもない。さばく立場では全くない。お前みたいなペイペイが裁けるなんて誰も何も期待していないよ。そういうあなたが実際に今やっている「裁き」を直ちにやめなさいと言っているにすぎないのです。それは道徳の問題ではなく、ただちにあなたに起こるべき救いの業のことです。
そのように考えて、最初に読んだときには理解できなかったことが少しずつわかってくる。するとふと思ったのだが・・・というか、最初から多分そうなのだけれど・・・実は福音書は道徳のことなど何一つ言っていないのではないか。
こうすると罪に定められます。罪に定められると救われないのか。もう許されることはないのか。福音書を見ると、そういう最終的に許されないということを言っている場所はごくわずかしかない。「聖霊を汚すものは許されない」といったごくわずかの例外を除けば、あれも許されます、これも許されます、あなたも許しなさい、許せ許せ許せの繰り返しである。
許すということは、最終的にそれであなたが罪に定められてもう救われようがないということはないということです。あんなやつが、救われるはずがない、というような人が救われて、品行方正なあなたは救われません。当然そういうこともあり得る。福音書はいつもそういうことを強調している。