体験、という言葉は適当ではない。意識とでもいったらいいのか。
つまり、不思議なことを経験しながら、それが真実であると確信するということである。とんでもない体験をする。
それを説明しようとすると、それはいかにもありえないようなことのように聞こえる。時には本人でさえ、そんなことが起こったのか確かでなくなってしまう。しかし、それを経験している最中には、そのことが確かで疑いようのないことだとわかっているのである。
霊的とか精神的とか呼ばれる問題、あるいは哲学、科学であったとしても、なんでもいいのだが、あることが真実であると確信する、確認するというのはどういうふうに可能になるのか。
一つは他者との合意である。「あいつ、馬鹿だよね。」「そうだよね。」ということで、あいつが馬鹿に決定してしまう。しかし、これには常に後から疑いをさしはさむ余地が残る。この他者との合意は、基本的には本人の弱さや自己防衛に基づいている。何かの結論に飛びつくことは心地よいことなのだ。そしてその結論が崩れないように人は必死でそれを守る。
問題はもう一つのほうで、自分自身が完全に納得できる、疑いようもなく知るということである。それは理性的なプロセスだと思いがちだがそうではない。単純にわかるのであり、そういう意識状態になるということである。それは孤独で透明な理解である。誰かほかの人がそれをわかってくれる保証はない。
結局のところ信仰というのはそういうものである必要があると思う。トマスは主の体の傷口に指を入れてみないと信じないと言っていたのに、主が現れると復活を信じた。そこで主は「お前は見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである。」と仰った。見ないで信じるということは、基本的にそういうことでないといけないと思う。