自分は先ごろ初めて知ったのだが、プロテスタントが起こると同時に、聖伝、つまり聖書にかかれた以外の聖なる伝統というものは否定されたが、同時に聖遺物信仰というのも一種の偶像崇拝と彼らはみなしたらしい。なんでもプロテスタントのエリアでは聖遺物は大規模に破壊が行われたようだ。
現代でも、プロテスタントの人は聖遺物というものは否定し、「当初の教会において聖遺物信仰はなかった」などとまことしやかに仰っている人もいる。
しかし、それはおかしい。たとえばサンマルコ大聖堂の聖マルコの不朽体というのは、少なくとも一世紀か二世紀のものであるはずだ。マルコはペテロに教わってキリスト教をアフリカに広めた聖人である。主が十字架にかかられたときには、多分もうすでに生を受けていたはずだ。
自分自身ハラランボスの不朽体を見た。その不朽体はギリシャのメテオラの聖ステファノス修道院にある。彼は1世紀に生まれた3世紀に亡くなっている。当時の人としてはものすごく長生きだが、それも天寿を全うしたのではなく殉教したのだ。その遺体の一部はいまだに腐敗することなく、今日に至るまで驚くべき芳香を漂わせつづけている。その人はキリストが死んでからたった数十年でこの世に生を受けたことがわかっている人なのだ。その時代に聖遺物信仰があってはダメなのなら、なぜ彼の肉体は残っているのか?
その、聖遺物信仰とか、しゃちほこばった名前を付けるからいけないんだ。
だけど、少なくとも1世紀の、ほとんどの主のお亡くなりになった直後、あるいは数十年程度の人々の遺体も、大事に保存され、それなりに価値のあるものとしてそれまでのクリスチャンたちには保存されてきたわけだ。なんかどこか遠くの高価な何か、というわけじゃない。彼らは自分にキリスト教を伝えてくれた聖人の遺体を大事にした。それだけのことだ。
そして、自分はそれが不朽体であるという点で、別段1000年後のモスクワのアレキセイの不朽体だろうが2000年後の日本の亜使徒大主教聖ニコライであろうと、自分は構わないと思う。ええ、今日あなたが洗礼を受けて、まかり間違って土葬して3年ほどたってから墓を開けてみたら腐っておらず、バラのような芳香を放っていたら・・・あなたもまた神に認められた、それでいいと思う。
並みの人生を送った人は腐る。臭くもなる。自分がそうなったからと言って、言い逃れをしようとは思わないが、要するにそういう恩寵に値しなかったわけだ。が、たまたま神に認められて、そういう特別なことが起こったとして、たとえばあなたの兄弟がなくなった後でその遺体が香っていたとして、破壊する必要はないのではないか。
逆に、完全にその風習を否定してしまうことによって、重要な真実を失ってしまっていないか?自分は別にルターやプロテスタントの傑人が、不朽体になったっていいと思っている。彼がもし「自分が死んだら自分の肉体は完全に破壊せよ」と命じたなら話は別だ。そう信じて行えばいいだろう。しかし、キリスト教は親玉が「おれの肉を食え」と言い残した宗教なのだ。
もう少し素直な、まっさらな眼で見て、わからないことがあればしばらく保留にしてほしいと思う。現地に行くこともできる。本を見ることもできるだろう。