イスラム国の問題とか、武力は必要なことだと思う。現地で銃を戦っているキリスト教義勇兵の皆さんには敬意を払わねばならない。しかし一方で、武力や経済環境の改善だけでは完全な解決にはならない。イスラム国のイデオロギーに代わる、何か別の看板、何か別の知識をイスラムの人々も持たねばならない。
それやこれやで、いろいろ考えたり検索したりしているうちに、今までも十分知っているあることに気が付いた
・・・・イスラムは占星術を全然タブー視していない・・・・
よく使っているパートオブフォーチュンのような計算上の点が、イスラムの占星術によってもたらされたことはよく知られている。
自分が知ってる限りキリスト教はまるで病的に占星術を忌み嫌っている。だが、イスラムが認めているということになると、そのいくつかの根拠はなくなってしまう。
まず聖書にその根拠を求める考え方。旧約には占いや口寄せをするものは生かしておくな、という言葉があるのだけれど、これは当時の考え方として占星術は含まれていない。一方で、聖書中に占星術が使われていたということを示す箇所はいろいろあるのです。とはいうものの、多くのクリスチャンは、「普通に聖書を読めばダメじゃないか」的な態度を取ってきた。しかし、イスラムが禁止していないということになると・・・そしてユダヤ教も実は占星術を禁止したりはしていないのだが・・・なぜキリスト教だけそうなったのか?ということになる。
自分が直接話した司祭さんとかの反応は、むしろ占星術に対する態度の問題だった。よく出てくるのは
「占星術を信じるのか、神を信じるのか」
的な、それが矛盾するという考え。未来が何らかの法則によって決定しているという考え方に対する反発である。
だが、これも最終的な論拠にはならないと思う。自分は教会の宗教哲学みたいなものに歯向かうつもりは全くない。良く占星術の優越性みたいなことを言おうとする人がいるけど、至聖三者以上に最終的な何かを挿げ替えるつもりは自分はないのです。
信じたらイチジクの木が枯れることと、占星術は、矛盾なく成り立ってはいけないのか?
そしてイスラムも神に対する信仰を強調しながら、占星術に対しては全く問題ないという態度を取った。キリスト教の占星術に対するアレルギーは、どこかでなにかの拍子に始まったのもので、根本的なものではないのだ。
なぜなのだろう。これは今からある程度調査が必要だろうと思う。
占星術が昔のギリシャの神々の名前を表象に使っているから?
組織の問題もあるだろう。イスラムにはそもそも何かを禁止する宗教的権威というものはない。法王・総主教はイスラムにはいないのだ。だから日常生活や芸術関係での縛りはきついけど、学問的なことに対する禁止事項というのは歴史的にあまりなかったのではないかと思う。
最終的には、多分ヨーロッパの無知と魔女狩りのせいなのだろうと思う。
あれによって「教会の用意したメニュー以外の定食を食べる奴は悪魔の使い」みたいな考えが人々に刷り込まれてしまった。
釈迦は、占星術は意味をもたなかつた
みやけまさみさん、こんにちわ。
この議論は、他でお願いします。
お釈迦様は息子さんに占星術用語から名前をお付けになっています。
スッタニパータの時点ですでに「月がラーフのとらわれから抜けるが如く」などという表現もあります。
お釈迦様の時代占星術は当然の前提でした。あるいはそれが定説だと言ってもいいと思います。
別に「それは違うんだ」というご意見があってもいいですけど、それにしても一行では話になりません。
そうすると、どうしても法華経ではこうなっている、阿弥陀経ではこう言っている、中論ではこう、倶舎論ではこう、ということになってしまうでしょ。
それはこのブログですることではありません。