ぴちぴちピッチの歌のギリシャ語のバージョンを聞いていて、今までご紹介したように一人一人の歌唱力も大したものなのだけれど、結果的にグループで歌っているのもクオリティが良い。自分には、まるで本当のアイドルグループか、昭和のころの欧米のポップスの何かのように聞こえることがある。
そうした曲の一つで「夢のその先へ」という曲がある。
でも、それだけじゃないんです。その歌詞が、結構いいように自分には感じられる。ちゃちくないような・・・
日本語の歌詞、こんなです。
もしも 願いが 叶ったら
その先に 何が待ってるの?
今は 大きなこのユメが 叶うまで 夢中だけど
戦うたび 愛の意味を 問いかける
千の星が瞬いた…
きっと I’m just Girl!
ユメだけでは生きられない
愛される予感をください
今 ありのままの私と
“夢のその先へ”…
どう言っていいのか、いかにもアニソン然とした感じでしょ?この「夢のその先へ」というのは最終回のタイトルにもなっているようで、戦いが終わってそれぞれが恋愛を成就したみたいな形になっている。だからその先はどうなの?ということで、一応筋は通っているんだけど、なんかいかにも異性に愛してくれ、みたいな感じでしょ。
ギリシャ語の歌詞を訳してみる。ちょっと難しいけど。
Πες μου τι θα νιώσεις αν σε κάποια στιγμή / ある瞬間に感じるものはなにか言ってごらん
τ’ όνειρο που θες μπορούσε πια στ’ αλήθεια να βγει / あなたが願っていた夢を真実において導き出すことができたなら
Τώρα πιαθα ζω για να μπορέσω να δω / 今はもっと見ることができるように生きていこう
τ’ όνειρο μου αυτό να βγει αληθινά / その私の夢が本当のものになるように
Τη δύναμη μου αντλώ για κάθε μάχη ενάντια στο κάκο / 悪に対してするそれぞれ戦いのために私は自分に力を導く
Με ζεσταίνει γλυκά σαν αχτίδα από ήλιο καυτό / その力は熱い太陽の光線のように私を甘く温める
Γιατί έχω μάθει εγώ έτσι απλά να ζω πίστα ν’ ακολουθώ το μονοπάτι της αρέτης / なぜなら私はこのように単純に信頼を持って生き徳の道をたどることを学んだから。
Μα έχω ανάγκη κι εγώ το όνειρο μου να ζω / 同時に自分は自分の夢を生きていかなくてはならない
κι έτσι να βρω τα μυστικά της μικρής μου ψυχής. / そして自分の小さな魂のいろいろの秘密を見つけるのです。
一応日本語の歌詞に沿って訳してはいる。でも、歌詞が安易じゃないでしょ?
いや、ほんとうは自分はギリシャ人じゃないからわからないですよ。ギリシャのご立派な歌はアニソン風情と違います、とおしかりを受けるかもしれない。だけど、自分には結構中身のある歌になっているように聞こえます。
そして、「ゆーめのそーの、さきへー」という部分が「τα μυστικά της μικρής μου ψυχής タ・ミスティカ・ティス・ミクリズ・ムー・プシヒース(小さな魂のいろいろな秘密)」という言葉で繰り返される。これも「これいいでしょう?」とご紹介しようにも、日本語でこんなリフレインはあり得ないのです。
今のところ、歌詞にはやたら「夢」「心(カルディア)」「たましい(プシヒー)」は出てくるんです。
自分の中では、そうした単語はある程度整合性のとれたものとして感じられる。いやまあ、そもそも少女漫画ですよ。高尚な何かを求めるのは間違いかもしれないけれども、たましいの旅路の中で、あのきらきらの星羅のいる夢の世界というのはリアルに感じられるのです。
だけど、逆に日本語にそれをしようと思ったときに、プシヒーです、たましいです、と言っても概念的に「ああ、あのことを言っているのね」とは普通は思えないと思う。
逆に、プシヒーに相当するものを日本人が感じたことがないかというと、そんなことはないでしょう。しかし、その場合、そのプシヒーが死後も残って天国や地獄に行きますという意味ではなく、自分の一つの中心として感じられる何かだったとしても、日本人はそれを「こころ」だとしか表現できないと思う。その結果
「こころこそ こころ惑わすこころなれ こころにこころ こころ許すな」
みたいなことになってしまって、「おめえ、一体どれのことを言っているんだ?」ということになってしまう。
結局のところ、ギリシャ古典・ヘレニズム・そしてキリスト教正教の後継者である真摯な人々が、ギリシャ語の正しい単語を正しい意味合いで使い続けてきた結果、彼らにはそういう概念が根付いている、というほかはないと思います。
周りの人がある文脈で「プシヒー」だと言っていれば、その環境で育つ子供は自然自然にその使い方を学んで、その語彙を正しい文脈で使えるようになる、ということなのだと思う。
自分としては、言語を学ぶというのは、そういうことが重要だと言いたいです。契約書の書き方がわかってビジネスができるのもいいでしょう。英語が話せてイチローを応援しに行って悪態の一つもつけるのもいいかもしれない。だけど、その言語空間でしか一般化していない真実の概念というのがあるということになると、やってみないことには手も足もでないもの。