前回で記事は終わろうと思ったのだけれど、ちょっと番外編です。案外続いちゃったりして・・・
中身はマンガの内容みたいなもんだけど、前回までの記事を書いて、やっぱり書くと頭の中でイメージができるわけですよ。ああ、プシヒーすね、たましいですね、みたいな。そうすると、近年立て続けになくなっている自分の親族の人たちも、「ああそうか、何らかの(何らかのですよ)継続があるんだな」と思え、身近に思えるわけです。母なんかは、まるで彼らが生きているかのように話しかけたり好物をお供えしたりしています。自分はそういうことはしないのだけれど、目には見えなくてもどこかにいるみたいな漠然とした感覚を持つことができるかもしれない。
それで気が付いたわけですが、要するにこの個人の継続体のことを、日本では「ほとけ」と呼んでいる。時代劇で十手持ちが、あるいは最近の刑事ドラマなんかでも「それでほとけさんは?」みたいなセリフが出てきて、「死人=ほとけさん」なんです。
仏教の教義的には、もともと死後その人自身であるところの継続体を認めないと思います。「個人」であるところの自己の主体である「アートマン」があると思い込んでしまうところに間違いがある、というのが当初からの仏教の考えです。つまり無我、です。
アートマンがないのになぜ転生するのか、ということに対して、教義的な説明はあるのだけれど、一般の人にはなかなかそのお釈迦様のご説明になった真意は伝わらない。因があるから転生するだの、アーラヤ識だのと言われてもわかるもんじゃない。
そこで仏教はスーパーウルトラF難度の解決策を用意した・・・つまり死者に授戒を施して仏弟子にし、仏弟子だから転生の期間を持って「ほとけ」になるのだ・・・みたいな。
専門の先生は「いや、それは違います」と仰るかもしれない。だけど、巷の理解は要するにそういうことです。先生、まず刑事ドラマに文句を仰ってください!
本当は仏教とは違う視点から、「たましい」というものの概念が一般化されてもよかったと思う。しかし、抽象化された自己とみなされる概念は仏教の広まった日本では日常会話から淘汰されていったのだと思う。道元禅師みたいな偉大な指導者が現れて、それなりの思想を広めたときに「たましい?それは先尼外道だ。」みたいなことになって、そういう単語は使われなくなった。その代りにもう少し漠然とした内容として「こころ」という言葉が一般化したのだろう。
そして、おそらくそういう精霊信仰とでもいうようなものは、仏教各宗派が席巻した日本の中央部では弱体化してしまって、東北や沖縄のような辺境の地で残った。統計を取ってみると東北の人は特定の宗教に対してあまり信仰を持っていないという数字が出るようです。しかし、イタコのようなものがいたり、漠然と「霊」「たましい」というようなものに対する感覚を持っている。そして日本の中央部ではそういうものに対して漠然と「ほとけ」という言葉で置き換えている、といったところではないだろうか。
でも、自分はこれは日本人のためには残念なことだと思います。たましいという言葉を、多くの人々が正しい文脈で使うという環境ができていたなら、多分もっと精神的なことに対する理解は広まったでしょう。