主のご降誕おめでとうございます。
実は昨日、正確にはおとといの日没から、1月7日がユリウス暦でいう12月25日で、クリスマスにあたる。プーチン大統領が36時間の停戦を命じたのは皆さんもご存じだと思う。
たまたま今日の午前中ロシア語の授業があり、Роджество Христово(ラジェストボ・ハリストーヴァ)つまりクリスマスで、また少し余った時間に先生がロシアでのクリスマス事情を話してくれた。
しかし、その内容たるや、すさまじいものだった。
1917年ロシア革命が起こると復活祭とクリスマスは禁止された。それを祝ってはいけない、ということになったわけです。このボルシェビキ、ロシア共産党の支配下にあっても神を信じる人々はいたものの、彼らは共産党員になることはできず、出世もできず、白い目で見られていた。
今までブログをご覧になった方はご存じだろうが、マルクス、レーニン、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフなど、ロシア革命の主な首謀者は大体ユダヤ人である。何百年もロシアはキリスト教国であり続けてきた。しかし、このユダヤ人たちはロシア人を扇動し、まんまとキリスト教の行事を禁じ聖堂を爆破することに成功したのである。
授業では触れなかったが、この時にロシアの総主教は廃止され、教会はシノド、つまり合議制によって決められることになった。そして多くの亡命ロシア人が世界各地に散らばった。日本にもたくさんの亡命ロシア人がやってきた。
教科書は1935年にヨルカが許可されたと書かれていた。そしてこのヨルカの訳としてクリスマスツリーと書かれている。しかし、実際にはこれはクリスマスツリーではなく、ロシアでは新年の木と呼ばれていた。クリスマスは禁止されていたのである。スターリンに対してポスティシェフは、クリスマスツリーではなくロシアの風習として新年のツリーを飾るのはいいのではないかと進言し、スターリンはそれを喜んだ。
徐々にクリスマスや復活祭はその権威を取り戻した。しかし、それでも政府は宗教色のないものに限りその行事を行うのを許可した。教科書では「新年にクリスマスの属性が融合した世界唯一の国だった」と訳しているが、ボルシェビキのしたことは、それがクリスマスでさえなければ、その行事を新年の行事として行ってもよい、ということに過ぎなかった。
たとえば、復活祭40日前に、いわゆるカーニバル、謝肉祭がある。その謝肉祭以降、キリスト教徒は肉や魚や乳製品を食べない。しかし、正教ではカーニバルに相当する日曜日はτηλοφάγου(ティロファグ、チーズを食べる日)と呼ばれ、その一週間前がαποκρέως(アポクレオス、肉から遠ざかる日)と呼ばれている。日本語ではそれぞれ、甘酪の主日、断肉の主日と訳されている。この断肉の主日を持って肉や魚を食べることをやめ、干酪の主日を持って卵も乳製品も禁じられるわけだ。
ところがロシア人はこの断肉の主日から干酪の主日までの一週間をマースレニッツァ(バター祭り)と呼ぶ。干酪の主日では教会色が残ってしまう。スラブには昔からバター祭りという風習があるといえば、それはOKなのである。
1991年、ソ連邦は崩壊した。シノドは廃止されモスクワ総主教が復活した。
その日私は京都の教会に行き、司祭は「こんな日が私が生きている間に来るとは思わなかった」というのを聞いた。やっと大っぴらにクリスマスが祝えるようになった。しかし、共産体制になれたロシアの人々にとってクリスマスは遠い存在になっていた。ロシア民族がクリスチャンとしての自覚を取り戻すのは大変だった。
ところがプーチンがクリスマスに兵士に攻撃命令を停止させると、ブリンケンだのゼレンスキーだのロイターの社長やファイザーの社長といったユダヤ人たちが、「プーチンは悪魔だ」と言いたがる。彼らは!覚えておいてほしい、彼らはキリスト教など信仰しておらず、それを邪魔なものとして扱っているだけなのだ。
主のご降誕おめでとうございます。
やっとここまでたどり着けた。長い道のりだったに違いない。
今この火を消してはならない。