世の中のクリスチャンというものは、聖書はあって当たり前、と思っているが、本当はそんなものはないのが当たり前である。人は悩んだり苦しんだり探したり迷ったりして、そのときの指針になるものが何もない、ということだってあり得る。
その、悩んで悩んでもうどうしようもない、という時に、福音書はどうか、ということになる。まっさらな目で見て、その人生で絶望的なその日、聖書とガンジーの伝記かなんかがおいてあって、「やっぱりガンジーの伝記のほうが訴えかけるものがあるな」と思えばガンジーの伝記を取ればいい。そこで、「なるほど福音書にはこういう教えが書いてあったのだ」と思えなければ仕方がないじゃないか。
たとえばの話で、私ぐらいの年齢になれば、誰でも一通りの職業とかを経験し、大体見えてくる。自分の人生もそう長くはない。若い時のようにあれもこれもできるというような幻想に浸ることはできない。「そのうちいつか・・・」というのではなくて、すぐに結果を出したい。今日なのか、今年なのか、3年なのか、腰を据えて1日を大事にしなければならない。
あるいはそうではない人もいるかもしれない。若い時にさんざん苦労して、今日生きるか死ぬか、という経験を積み重ねた人もいるかもしれない。そういう人は、早くにスタートを切ることになるだろう。
そうすると、思うに、最後の審判が1000年も先にあるかどうかなどということは、どうでもいいことだし、福音書を読んでも「ふ~~ん、2000年もたっても最後の審判ないなあ」とは思わないと思う。実際福音書にはそんなことは書いてないのだから。
もうこれ以上、人生ではどうしようもないというその日の教えが「その日がいつ来るかはわからないのだから、目を覚ましていなさい」なのだ。その言いたいことは「おい、こら、今来るぞ、今日来るぞ、来るぞ来るぞ来るぞ!もう残された時間なんてないんだ!」なのだ。
そう思って読んでみると、そのようにしか書いてない。そもそも「天国は近づいた」で「斧が根元に置かれている」であり「だから目を覚ましておれ」なのだ。
いつもお世話になってます
(これは単に殺人事件のURLです)
小豆島で60代の男女2人死亡、現場に荒らされた跡 香川県警、殺人事件として捜査
http://www.sankei.com/west/news/150430/wst1504300092-n1.html
平成21年のタクシー運転手強殺「最後の乗客」男の新動画公開 新潟
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150516-00000039-san-l15
地震が増えて富士山が爆発するとか、大地震が起きるとか報道されています。
マンデンでも日本を傷つける配置があるとか
でも、準備って言われても何をしたらいいか・・
自分が死んでも迷惑かけないように後片付けしたいと思っても
なかなか思うようにいかないんですよね。自分の器量がないせいとは思いますが
りんねさん、
最近なかなか見てなくてすみません。ちょっとお待ちください。
死んで迷惑をかけないように後片付け・・・それは無理です。
必ず誰かに迷惑はかけます。
神には、正しくあること。
この世でもし恵まれたなら子供をちゃんと育てること。
心配なさいますな。必ず何とかなりますよ。