朝日町の中学生殺害事件で、この高校生の容疑者が逮捕された後、被害者のご遺族が張り紙などの手段で「犯人の行為は決して許すことができず、厳罰を望んでいますが、今は捜査の状況を静かに見守りたいと思います」と発表された。
遺族の心境というものを推し量ることは難しいことだが、この「絶対に許せないから厳罰を望む」という内容の声明・意見発表というのは最近凶悪事件でよく見かける。
でも、こうした発表は昔からあったものではないように自分では思う。昔はそんなになかったと思うのだ・・・
お前はどうなのか?ということになりますよね。自分も許せんと思って気が狂うほど憎しみに駆られたことがあります。あるいは、自分が直接関与していないことでも、これは仕方がないかもしれないと思うことも確かにあります。
ただ、そういう多くの場合には、自分としては相手がそれまでに何をやってきたのかよく知っています。通常以上に親しい・近い間柄なのです。
今回の場合、この犯人の高校生と被害者は特に面識はなくて、今捕まった時点で初めてこの人が加害者だとわかったわけですよね。第三者的にはたった6000円やそこらで、何でそんなことをしたのか、と思う。
今の時点で「絶対に許せない」と言ってしまうとどうなのか。たとえばもう「加害者の少年の更生を望む」ということはありえないのか。
少年で初犯だから厳罰にはなりません。多分。素直に自供もしている。そうすると少年院に入るということになるのかもしれないが、それだと「厳罰を望ん」だ遺族としては満足なのか。あるいはそれで満足できないとしたら、自分で手を下すのか。こころの中では思うと思いますよ。こころの中で庖丁を研いだり、なたを振り回したりするかもしれない。しかし、現実の問題として決して許せないとしたらどうなったら満足なのか。
もちろん厳しくさばかれるべきだとは思うのですが、どうも最近の事件では憎しみを前面に出してくる声明が多く、それが社会的に可能な制裁や罰としてはありえないと思うのです。
しかし、今後の進展を待ちましょう。
こんばんは、
「絶対に許せない」、、、。
「自分も許せんと思って気が狂うほど憎しみに駆られたことがあります」
そうですか。
私もあります。
心の中で包丁を研いだり、、ナタを振り回したり、、。
確かにそのような心境は多かれ少なかれ誰にでもあることなのかもしれない。
この被害者の方がこれを聞いたら、
「そんな!誰にでもなどという生半可なものではない!」と思うかもしれない。
それはそうです。
そして「更生を望む」というような心の余裕はないと思う。
厳罰を望んでも、多分、それは無理でしょうね。
では、では、自分で手を下すのか?
テレビのミステリー物や刑事物ストーリーに復讐物語、多いですね。
ああいうドラマを見ていて、私が思いますには、
「ここまで憎しみの心を何年も維持し、復讐の計画を立て、実行に移す、」
そのパワーは凄い!としか言いようがないです。(あくまでドラマですが、、。)
宗教上、信仰、あるいは道徳の言う、「許す!」「許さない!」とかそういった世界を通り越しているような気がします。
私がいつも思いますのは
「絶対に許さない!」の憎しみのパワーを人は維持し続けることが出来るのか?
(大脳が制御してしまうのではないか?などなど話がそれましたが、、)
そして、結果、満足できるのか?
それはさておき、
冷静なるこれからの話として、
少年法をどうするか、被害者の家族の心の救済をどうするか、加害者の家族の心は、、
いろいろ問題があると思います。
この度の被害者のご家族の方々、もしこのコメントがお目に触れて
もし失礼なことを書いていましたらお許しください。
ネコさん、こんにちわ。
仰る通りで、恨みや憎しみに駆られるということと、それを具体的な行動に移すということは違うと思います。
それを維持することは大変なことでもあり、また実際に行動に移すということは、ある意味冷静にならなければならないということを示しています。
たとえば自殺なんかもそうだと思うのです。ある感情を持つということと、それを実現するということの間には、距離があります。
リストカット、自傷行為をすることはできても、それは本当は周囲に気が付いてほしいと思っているだけで、それでは死ぬこともできないし、結果的に周りも余計に動かなくてはなりません。
きちんと計画して潔く死ぬなどということはなかなかできることではありません。
一方で、恨みや憎しみを外に表明してしまうということは、公に「それを自分は正しいことだと思っている、そうすべきだと思っている」とはっきりさせてしまうことになると思うのです。
自分は、自分が正しいと思うことに付いて、具体的に行動であらわすべきだと思っています。ある程度誰でもそうだと思う。
そこで、「厳罰に処してほしい」というのは、最終的には「現在の法律的な解決では満足できない」という動きになっていくと思うのです。
ホントのところはどちらがいいのかわからない。
自分も時々仇討があったほうが正しいのかもしれないと思うこともあります。
死刑にする、というのでも、誰か別の人が国から仕事を仰せつかってその人を被害者や社会に変わって殺すのであって、誰かが手を汚すことは間違いありません。
仇討なら、ちゃんと敵を討てるわけで、自分以外の人の手を汚すこともありません。
そうではあるのですが、それが正しいのだ、という風潮にしてしまっていいのかどうか、自分は少し疑問です。
こんばんは、
仇討ですか!そうですね、考えておりませんでした。
私は昔、近所の人の事でトラブリ、憎しみに駆られ、
「呪いの呪術」を学ぼうとしたことがあります。
「呪いの仕方」とかいう本を買ってきて、
いろいろな呪文や「皮を燃やす」とかいう方法を読み、
ところが現実、この皮が適当な物がなかなか見つからない!
(相手が尋常な範囲を超えたことを言ってきていることは明らかでありました。)
しかし、腰砕けました。
「呪い返し」とかもかなわんし!などと思い、、。
まあなんにしても、自分が正しいことを主張して、戦い続けるためには
相当の気力と持久力がいることは確かだと思います。