「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒と皮袋も無駄になってしまう。」マルコ2.22
事実がぶどう酒で思想・思考の枠組みが皮袋だろうか。思想がぶどう酒で事実・つまり受け入れることのできる人が皮袋だろうか。
事実に行き当たったとき、普通は無防備な、準備ができていない状態で事実に行き当たる。そうすると必ず皮袋が破れることになってしまう。この場合には、何度も試行錯誤して、この人が最終的には新しい思想に出会うことが期待される。しかし、著しくゆがんだ結果がもたらされる可能性がないわけではない。仏教がそれに近い、と思う。
新しい思想がやってきたときに、事実に行き当たっている人がそれを受け入れればそれは正しく受け入れられる。もし新しい思想がもたらされたときに、事実に行き当たっていない人、まったく新しい思想を入れる余地がない人がそれを受け入れると、新しい思想を完全に否定してしまうか、もともとの思想では単純でわかりやすくさえある思想を何か途方もない化け物にしてしまう。