車のUSBが一回転して、復活祭のカノンを歌い始めた。
自分はこれを聞くととても心が動かされる。が、感動しながらもふと思った。自分はギリシャ語を聞く分にはあんまり困らないのです。そこではイクメニ(oikmene)と言ってる部分とコズモス(kosmos)と言っている部分がある。だけど、それに対応する日本語訳は「世界」だ。
ピンとこないかもしれない。
たとえば一調のトロパリは「救世主や、イウデヤの人墓を封じて兵卒爾の潔き身を守るとき、爾は三日目に復活して世界に生命を賜えり・・・」です。ですけど、ギリシャ語ではコズモー・ティン・ゾインです。コズモスcosmosなんです。
たとえば聖神降臨祭のトロパリは「崇め讃めらるる哉ハリストス我等の神よ, 爾は漁者に聖神 を遣して叡智者と為し, 彼等を以て世界を漁し得たり・・・」でもこれは「イクメニン・サギネフサス」です。
イクメニ、oikoumeneはもともと、oiko「住む」という動詞の受動態から派生した語で、人が住む範囲の土地を意味する。プロテスタントさんなんかが一生懸命やっているエキュメニカル運動というのもここに端を発している。当時アメリカ大陸というのは知られていなかったから、イスラエルに主がおいでになって、ヨーロッパ、アフリカ、スキタイのようなロシア国境の北アジア、インドや中国の方面と言った東方、そしてメソポタミアが支配できれば「全世界を支配した」ということになったわけで、これがいわゆる「イクメニ」です。当時それは本当に実現してたんですよ。
一方コズモス、今の言い方ではコスモスで、英語では宇宙のこと、今のギリシャ語ではたくさんの人々のいる世界のことです。もともとはコスモスはピタゴラスが作った言葉で、コスメティックスなどと同じ語源の言葉です。ひとまとまりにいろいろな飾りがついたもののことを言う。人はミクロコスモスである。全世界はマクロコスモスである。そういうことですよね。
つまり、この歌唱を始めた人にとって、コズモスとイクメニは違う概念だったわけだ。ギリシャ人がトロパリやカノンを聞く分には、この2つを違ったものとして受け取る。
ところが日本人はそれを「世界」という一つの概念で受け取る。
これは問題があるんじゃないか。キリストが復活して人が住む範囲すべての人々に真理がいきわたったということと、天の知られざる生命体も含めてコスモスが照らされたということは違う概念をいっているんじゃないのか?
多分問題は「世界」という言葉なんだと思う。世界というと私たちはこの世界のことだと思う。でも、多分それは違うんだと思うな。これはこんなに確固としたものじゃない。映画館のスクリーンに映像が映し出されるように、いま少しの間それはちゃんとしているように見える。だが、ちょっと扉を開ければ、向こう側には違ったなにかが存在している。いつもそこにあるんだ。