漠然と考えていて、そういうものがいるんじゃないかと思った。
福音書、特に共観福音書では、ほとんどページごとに「天国とは~のようなものである」と書かれている。(共観福音書というのは、マタイ、マルコ、ルカの福音書のことで、少しずつ違うが似た内容で書かれているため、そう呼ばれる)
しかし、「天国」について人々が思い描いているものは、「死後行くところ」だったり「何年か先に突然やってくる楽園」だったりしている。
自分は福音書の中の「天国」「天」という表現を追いかけて行けば、ちゃんと一つの結論が導けると思うのです。でも誰もそういうイメージを天国に対して持っていない。
ということは、福音書に書かれた天国の譬えをそのまま絵本にしたらいいのではないか?
種まきが種をまいている絵。そして畑に落ちた種、道端に落ちた種、いばらの中に落ちた種、岩の上に落ちた種、その行く末を絵にする。途中で畑を見回る人が毒麦を見つける。この人は主人に相談する。「これはどうしましょうか」そして収穫の絵を描く。
主人が僕に金を預けて旅に出るさまを描く。僕たちがその後どうしたかを描く。そして主人が帰って来た時にどうなったのかを描く。
結婚式に花婿が来るところを描く。人々は油に灯をつけて待っているが、ある人は油を切らしてしまうために花婿を迎えることができない。
こういう絵本が全くないわけではないのだけれど、どうも見たところ、ほとんどの本が、それに対する解釈を前提している。
ある人は「これは再臨についてのたとえ話です」という。毒麦がかられるところは、いわば裁かれる人々にとっての恐怖の物語になってしまうだろう。
だが、キリストはそういうことを言っているわけではない。なぜかというと「天国とは~のようなものである」であり、「あなた方のただなかに天国がある」からだ。
人々はまず未知の概念として「天国」を受け取って、それをイメージしないといけない。そのためには、たとえ話を絵にするのが一番いいのではないか。
だが、そんなことを誰がやるんだ?私がやりたいことは私がやらないと誰もやらないかもな。
天国とは~のようなものである
なんですか?それは世間のイメージと違いますね。
仏教でも「極楽」とは言いますが、実際はそのような場所があるわけではなく、「そのようなもの」なんですよね。
そういう境界になれる。
今宇宙理論とかが流行っていて、そういう方の発信みてると「なるほどなあ」と思います。
人間の身体は入れ物、本体はエネルギーであり、どんな心持で生活するかで結果は変わるし、
身体は無くなっても命はなくならない、また入れ物変えてどこかに生まれ変わる。
だから天国とか極楽というのは「そういう状態」を言うのであってそういう場所があるのではないのだな、
と理解しています。
あめさん、こんにちわ。
コメントありがとうございます。
まさにこのために、こういう絵本が要りますね。
そういうものがあれば人はそこに注目すると思うんです。