こころはふつう決して沈黙しない。こころは言葉を繰り返すこと、「する」ことで出来ている。
「する」ことは「わたし」である。しないとき、沈黙の時、私はいない。
沈黙の時、世界は何か広く見える。身体を後ろから見ているような、妙な視界になる。
私たちは、会話をするように、「する」ように訓練されていて、「する」「私」が普通だと思っている。それと同じように、沈黙している「しない」「わたしのいない」ところにいつでも行ける。それを覚え、信じなければならない。
こころはふつう決して沈黙しない。こころは言葉を繰り返すこと、「する」ことで出来ている。
「する」ことは「わたし」である。しないとき、沈黙の時、私はいない。
沈黙の時、世界は何か広く見える。身体を後ろから見ているような、妙な視界になる。
私たちは、会話をするように、「する」ように訓練されていて、「する」「私」が普通だと思っている。それと同じように、沈黙している「しない」「わたしのいない」ところにいつでも行ける。それを覚え、信じなければならない。
私たちは、会話をするように「する」ように訓練されている。それが普通だと思っている、私もそう思います。
沈黙のとき、私は、いない。
でも、私が、思いますのには、
そこに「ひっそりと」私がいるような気がする。
そう、「とても自由な世界にいる、」それはそれは自由な私がいるような気がする。
何者をも気にしない自由な世界の、解き放たれた自分がいるような気がする。
これは感じ方の問題ではあると思います。男女で違うかもしれないし。
しかし、ハッキリその位置は存在していて、いつでもそこに行けるようになるのが大事なことだと思います。