私がこの話を読んだのは、浜田広介さんの童話の本だった。
大体、こんな話だ。木こりが山の中で一服していると、顔に大きな目を一つ持った化け物が出てきた。
木こりが
「いやなやつが出てきたな。」
と思うと、化け物は
「いやなやつが出てきたな、と思ったな。」
という。
「こいつにはかなわない。黙っていよう。」
と思うと、化け物は
「こいつにはかなわない。黙っていよう、と思ったな。」
という。
さとりの化け物は、木こりが何かを考えると、すぐにそれがわかってそのことをいうのである。
最後には、木こりが寒くなって火を焚き始めると、火の粉がぱちんとはねて、化け物の目に当たって化け物は退散した。
この話には類似の話がいろいろあって、化け物が鳥だったり猿みたいな化け物だったりするパターンもある。また、火の粉ではなくて、無心に鍬で畑を耕していると、鍬の柄が緩んで、先っぽが抜けて化け物に当たったというような終わり方もある。最後は期せずして行った行為によって化け物はやられてしまう、というパターンだ。
童話・昔話には、そのもととなる単純な動機がある。このさとりの化け物は実在する妖怪なのか。何かの自然現象なのか。説話なのか。恋愛話なのか。
私は多分この物語の動機は、禅・仏教だと思う。
瞑想中に無だとか沈黙だとかを求めて、心で思うことをいくら追いかけたり思わないようにしたりしても、それを滅ぼしつくして沈黙に至るというようなことができない。絶対にやっつけられないのだ。むしろそれを気にかけないようにすることが大事だ。そういう取り組みを面白おかしい話にしていくうちに、こういう化け物話になったのではないかと思っている。
これは心と言っても、英語でいうマインドの問題、ギリシャ語でいうノエシスの問題だ。頭の問題なのだ。
その取り組みは、必要なものではある。どこかでそういうことをやらないといけない。
そうではあるが、最後に沈黙をもたらすのは、実は違うものだ。それは、気持ちの操作だ。