こう言い切ってしまうのは、あるいは、反論もあるだろう。自分が最初にそういうことを意識したのは橋本健博士の著作で、彼もまた理論上の神ではなくて、愛してくれる神がいる、と考えることを推奨していた。また歴史的な神学でも、見ることのできない神を直接的に見る・・・矛盾している・・・みたいなことが推奨されてきた。だからこういってしまうのは、当然多くの人の反発を招くだろう。
神の認識というのは、たとえば「物が落ちる」ということの理解に似ている。
物が落ちるのを見ることは、ダイレクトな体験であり、経験であり、直接的な認識である。子供は、手を放すと落ちるのを、大人から一切助けられることもなく、直接経験的に知る。ボールを上に投げ上げると落ちてくると知っている。
しかし、本当は「落ちる」ということはどういうことかを説明するのは、大変なことだ。
落ちるというのは「下」に向かって運動することだ。しかし、「下」とは何か。どこのことなのか。少し勉強し始めると、それは地球の中心ではないか、と考える人もいる。しかし、地球の中心など見たことがあるのか。地球が丸いのを見たことがあるのか。
速度はどうか。下方に時速20kmの低速で運動する物体がある。これは落ちているのか。違う。これは落ちているとは言えない。落ちる場合には、加速度がどんどん加わる、つまりだんだん速くなるのだ。
それで、最終的にはニュートンさんはこう言いました、アインシュタインさんはこう言いました、と言わなければならない。説明するのは大変なことなのだ。
赤ん坊が、目の前でボールが落ちるさまを見ているときに、赤ん坊はニュートンは知らない。アインシュタインも知らない。しかし、大人から何か説明を聞くでもなく「落ちる」ということを理解する。赤ちゃんや子供はそれがどういう事実なのかを事細かく説明はできないかもしれないが、「下」も「落ちる」も理解する。しかし、そのときにわかったこと自体は理論的なものなのである。
神の認識と「落ちる」ことの認識の違いは、「落ちる」ことは日常生活で誰でも経験することだが、「神」はその経験がなかなか得られないことだ。そして、それが得られない理由は「善悪を判断する木の実」のせいである。
神の認識には、いわば2つの道があるといってもいい。理屈をこねまわして、こういう風になっているのだ、こうでなければおかしいのだ、と納得することによって、神という事実があると知るということ。もう一つは、直接的に認識する方法である。
その直接的認識というのは、神自体が見えるわけでも何でもないのだ。神が創造しているということ、そういう何かが起こっているということを認識するのである。ちょうど「落ちる」ということを認識するときに「下」という実体もなければ「地球の中心」という実体もないにもかかわらず、我々は「下」を理解し「落ちる」を理解するように、目の前の世界が言葉によって成った、ということを見たときに、本当は見えるわけでも知ることができるわけでもないのだけれど、直接的に神という事実を認めざるを得なくなるのだ。
しかし、最終的にそれは描写したりできないものなのだ。理論的な説明が与えられれば、それは嘘っぽく感じられるだろう。だが、それはたぶん正しいのです。すごく直接的な経験・認識があったとしても、それを説明するのは難しいと感じられるはずで、最終的に正確な表現にはたぶん行き着かないのです。
多摩 http://www.christiantoday.co.jp/articles/19476/20160228/tama-nagayama-murder-fukuyoshi-kohei.htm
台東区 http://www.sankei.com/affairs/news/160228/afr1602280022-n1.html
でそれぞれ殺人事件がありました。台東区の方は朝ソファで寝ていて
お昼に娘が帰ってきたらソファで亡くなっていたという状況
娘が怪しいってつい思ってしまいますが、違っていたらかわいそうですよね
多摩は殺人に気付いてかけつけた隣人も殺されそうになったそうです
神様を見たことはありませんが、いつも今の仕事に入る前
更衣室で今日も無事に終わりますように、と拝んでから入るようにしています。
気持ちがそうでないと足元すくわれるっていう
でも神様の姿は見たことありません。幽霊も見ない(自分は見ていいくらいなんですが)
目で見えることだけが全てではないという認識です
りんねさん、こんばんわ。
コメントありがとうございます。2つの事件、たぶん見ます。
神のことで、こういうことを書くことは、たぶん多くの人には難しいと思う。自分しか書けない?いや、わかっている人もいるのかもしれない、おこがましいかもしれないが、たぶんあまりいない。いても、彼がひまとは限らない。私のように中途半端ではなくて、彼は重大な仕事を抱えているかもしれない。馬鹿でも自分が表現する価値はあるのではないかと思います。
自分は自分が考えていることは、おかしいと思う。ふつう人が信じていることと、自分が事実と認めていることが、あまりにも違っています。でも、自分はそれで、たとえば昔々、中学校とか、若い時にはわからなかった福音書のこととか、すごくわかったりします。なぜわからないのかもわかる。ひょっとしたら、私が書いて、誰かが「あっ、そうか」と思うかもしれない。