どうして私たちは変化や時間を認識できるのだろう。
ツバメが飛んでいる。 すいすいと気持ちよく飛んでいる。
普通に考えれば、さっきあそこにいて、今こちらにいるから、運動したということになる。
だが、意識には今しかない。さっき存在したものは「存在した」ものであって、「存在する」ものではない。あるかないかでいえば、さっきのものはない。 さっきツバメがいたところにツバメはいない。ツバメがいたところはどこにもない。
さっきに意識は届かない。
そこで過去が存在するのは、われわれが自分自身で何かの痕跡を残すからだ・・・
大きな意味では記憶といってもいい。 だが何十年も前の記憶が再現されるのと、思考が行う認識によって何かの痕跡が残ること、言い換えるなら外的な影響にわれわれが意志を適合させて、本来は存在しない何かを存在させること・・・とは別だ。
いずれその存在しない世界が存在しないことは分かっている。 過去が存在しないのにどのように運動を認識するのか。
われわれは速度を算出するときにA点とB点を考えて、B点がA点に無限に近づいたときのA点とB点の傾きを導き出す。通常の数学ではそうだ。微分、導関数ですね。 だが、本当は速度が仮に存在していたとしても2点は意識の上で存在してはいけないはずなのだ。意識にB点はない。変化が空間をもたらすのであって、空間の上で何かが移動するのではないはずだ。そうではないか?
とにかく2点の上をまっすぐに何かが移動するというのが変化だ、という考えは最終的には正しくないはずなのだ。間隙が存在しないのに、なぜ動いていると分かるのか?
結局は運命学というのは、まっすぐに何かが移動するのではないが別の法則が存在するはずだ、という考えの下にあると思ってはいるのだが・・・