キリスト教は占星術というものを排除してきた。仏教は重要な一要素として占星術があったわけだが、日本の仏教ではそうしたことは忘れ去られている。
多分、宗教は占星術をやったほうがいい。
なぜかというと、占星術はある程度当たるからである。占星術が絶対であると信じたりする必要はない。ある程度当たる、それでいいのだ。いずれ占星術を理論的・哲学的に位置づける必要は出てくるだろう。だが、それはぼちぼちやればいいことだ。それに結論はわかっている人にはわかっているのだから。
占星術がなかったらどうなのか。
どうしても、信じるか信じないか、がすべてになってしまう。間の斟酌というものが抜けてしまう。
熱心に信仰している人でも、思いがけない困難に遭遇することもある。それが、外部から突然降ってわいたような困難である場合もあるかもしれないし、思いがけなく悪いことをしてしまうということかもしれない。
その時に、「お前はこんなに熱心に神を信じると言いながら、こんな事故を避けることもできなかったのか」とか、「お前はこんなに神の前に正義を語っていたのに、こんな悪いことをしてしまうのか」といった批判を浴びることになるだろう。本人としても、すごく責められることになるだろう。
多くのカルト宗教が、中間を抜いて、最終的な利益を語ろうとする。この神様だかお経だかの名前を唱えすれば救われるとか。ほな、そのお経の名前を唱えて、天眼通力とかは当然得られたんでしょうね?いやいや、なかなかそうはいきませんよ。得られた方もおいでになるかもしれません。でも、普通はそうはいかない。熱心に布教活動している人に、「ここに病人がいるから手を置いて治してやってください」といっても、たぶんできないだろう。
そこで、占星術は、ある程度一息つかせてくれる。最終的には神がすべてなのだ。だが、お前は普通にこのままいけば、こういう結婚をして、こういう困難を経験するだろう。ある程度の事実を提供してくれるのだ。