昨晩寝ているときに・・・今日でもちごめの稲刈りが終わった。昨日はコシヒカリの脱穀だった。なのでくたくたなので少し早めに床に入ったわけで不規則に目が覚めたりするわけだが・・・なぜか突然「奇蹟を求めて」でグルジェフが言っていたフレーズを思い出した。
つまり、人はエニアグラムにあてはめられる事柄だけを知っているのだ、みたいなことだ。
エニアグラムは一つの象徴、一つのシンボルだ。それが9つであるという点で、九星に似ていなくもない。ただエニアグラムの特徴は中に引かれた線で表される関係性である。しかし、グルジェフは結局エニアグラムを一般化するのには失敗したように見える。
が、何はともあれ、それは一つのコスモスだ。
九星も一つのコスモスだ。カバラの生命の木も一つのコスモスだ。そういう象徴はみな生きた一つのコスモスを表している。
ホロスコープは一つのコスモスだ。今あなたが殺人現場に居合わせた・・・それが一つのコスモスだ。すべてがホロスコープという金太郎飴によってあらわされる。
象徴、シンボルは神という思想とつながっている。シンボルは、神から来ている鎖の一つの輪だ。それは巨大なものにも小さなものにも当てはまる。
ということは、言い換えれば、占星術師にとって、ホロスコープにあてはめられる事柄だけを知っているということになるだろう。
実際、ホラリーの占星術師は、あらゆる事柄を一つのホロスコープの中に当てはめる。なんでも、車一つは一つのホロスコープの象徴の中に意味を収めることができるらしい。どうなんだろうか。エンジンは獅子になるのだろう。窓はふたごかもしれない。彼は自分がホラリーを組んだときに、「あっ、こいつはアクセルとブレーキ・・・やぎか?・・・を間違えて踏んだな?」「彼はシートベルト・・・多分おとめかなにだろう・・・をしていなかったな」とわかるのかもしれない。
自分は今そんなことはしてないよ。
で、じゃあ、あらゆることをホロスコープの象徴の中に収める努力をすべきなのだろうか。
ええ、基本的には多分そうです。
しかし、それにしても、それを思考が理解するということでは、意味がないような気もする。それはあらたな目録を作るだけではないか?目録が増えるだけ増えて、また神経症の種が増えるだけじゃないか。その最終的に「見える」とか「意志する」ということと、その目録は関係するのか?邪魔なだけではないのか。
最後は、「あちら側」にそれを伝えるということでないといけないと思うんです。あなた方は自分が僕に過ぎないと覚えておきなさい。主は彼なのだ。
我々が信じるというときに、実は馬祖は瓦を磨いているだけだ。信じているのはそもそも聖霊の仕業でないとおかしい。私は僕に過ぎない。
ホロスコープもたぶん同じなのだろう。
で、そうであるとわかっていて、瓦を磨くのが多分正しいのだろう。