どうも、当初はルターもカルヴァンも生神女については、その崇敬について反対していなかったらしい。
Wikipediaのプロテスタントにおけるマリヤ観によると
マルティン・ルターはマリアを「最も気高い婦人」、「私たちは決して十分に彼女に栄誉を与えられない」、「マリアへの崇敬は人間の心深くに刻まれる」、またクリスチャンの「すべてが彼女を尊敬する」べきであると言った。カルヴァンは「否定しようもないのは、神がマリアを選んで定め、彼女に高い栄誉を与えたことである」と言った。
ということである。
これは当然のことで、ルターは司祭だったのです。司祭さんが、それまでマリアさんの前に額づいていたのに「ほな、今日から突然やめるわ」ということはなかなか難しいというのは想像がつく。
しかし、そういうことであれば、どこかで生神女について伝統的な教会が決めた教義を根本的に否定し、「これは間違っている!」と宣言した瞬間がありそうなものである。しかし、結局、キリスト・神・子は創造以前からの神そのものであるということを否定することができないために、その元々の神であるものの母として選ばれた、つまり彼女が生神女であるということを、根本的な教義上否定した瞬間というものはプロテスタントさんでもどうやらなさそうなのです。
そんなの無理ですよ、キリスト教である限り。マリアへの崇敬を否定することは、キリストに対する否定につながってしまうからです。
では、なぜプロテスタントさんの一派ではそれほど熱心にマリア崇敬に対する拒否を示すのだろうか。
詳しいことはわからないが、2つのことは言えると思う。
まず、マリア様というものを、絵や像を使わずに具体的にイメージすることが極めて難しいだろうということ。神・父は今日目の前の真実ですから、別に衣服を身に着けている必要はない。しかし、マリアさんはそうはいかない。
自分はイコンに書かれた生神女というものを当たり前のように見ているから、あの時代のイスラエルの女性が今のイスラムの女性のように常に頭に覆いをしていたということも別段違和感なく受け取れる。しかし、仮に聖書だけでそれをイメージするとしたら?
聖書には一見マリア様の被り物について言及されていないように見える。が、本当はそれは嘘で、女は髪を隠せということは、聖書に書かれてはいる。もし「聖書だけを大事にしないといけない」ということなら、そういう格好を信者さんはすべきだ、ということになるだろう。
しかし、いずれにしても、もし全く絵画というものが存在しない伝統において、マリアさんが和服を着て髪を結っていたり、ブラウスとスカートを身に着けているものが想像されることもあり得るかもしれない。
もう一つは、プロテスタントさんは「聖書のみ」と言ってしまったおかげで、聖書に書かれていない伝統は否定せざるを得なくなった。だけど、聖書に書かれていなくても、マリアさんもどこかで暮らして、食べ物も食べれば便所にも行って、どこかで息を引き取ったはずなのだ。もっとも、霊に載ってあちこちに出現したフィリッポスの親玉みたいな、水の上を歩いた救世主の母親なのだ。ついつい、その話は奇蹟的なものになってしまう。そうしたあらゆる、聖書に書かれていない、しかしキリストを信じた人々が見聞きした内容を取り除いてしまうと、マリアさんについての事績を維持することが難しくなってしまう。言い換えれば、聖書にはそんなにマリアさんについては書いてないのです。
色々調べてみて、自分は生神女についてのいろいろなことであまりプロテスタントさんと争いたくないと思いました。いろいろ調べてみると、そんなに違うことを信じているわけではないとわかってきたから。
そして、もう少しこの生神女についてのこと、プロテスタントさんがいぶかしく思っている点も含めて、考えてみたいと思う。