聖体礼儀、カトリックさんでいうミサだが、ミサが「キリエ」の歌唱で始まる場所で、聖体礼儀は大連祷と呼ばれる祈祷で始まる。
我ら安和にして主に祈らん・・・主憐れめよ
上より降る安和と我らがたましいの救いのために主に祈らん・・・主憐れめよ
全世界の安和、神の聖なる諸教会の堅立、および衆人の合一のために主に祈らん・・・主憐れめよ
・・・・(中略)・・・・
至聖至潔にして至りて賛美たる我らの光栄の女宰、生神女、永貞童女マリアと諸聖人とを記憶して、我らおのれの身および互いに各々の身をもって、並びにことごとくの我らの生命を持って、ハリストス神に委託せん・・・主、なんじに
けだし、およその光栄、尊貴、伏拝は爾父と子と聖神に帰す、今もいつも世々に・・・アミン
カトリックさんの「キリエ・エレイソン」は文字通り「主憐れめよ」という意味で、カトリックさんは司祭が呼びかけて会衆が答える形式の祈祷を単純化して歌唱にしてしまったのです。だけど、この祈祷の中にも、生神女に対する祈祷は大きく取り上げられている。連祷は聖体礼儀中に何回も出てくるし、晩祷などにも出てくる。まあまあ、しょっちゅう生神女は教会の祈祷で取り上げられているのは、本当だし、人々は本当に彼女に望みを託している。
おそらく、その感覚というのはなかなか日本人で信者になった人でもわからないかもしれない。
自分は以前ロシア語の勉強会でロシア語の祈祷がどんなものか披露してくれ云々という話があったので、生神女のイコンとろうそく、大十字架はないから小さなネックレスの十字架と乳香の香炉を携えて、自分がちょっとだけロシア語でわかっている祈祷、スベヤティ・ボージェ(聖なる神)から始まってオッチェナシ(天にいます)などを披露したことがあった。
周りの日本の人は、ロシアに興味がある人かもしれないけど、教会のことはあんまり知らない人ばっかりだったので、一応私も形だけでおさめようとしたのだけれど、その時居合わせたロシア人の先生はしばらく生神女のイコンの前で静かに祈祷していらした。自分も形としてはすべて受け入れてはいるけれども、彼らには骨身に染みついたものになっているのです。
こうしたことが第三者から見たときに、何か過剰なもののように映るのだろう。神そのものと比べて、生神女の神学的重要性ってそこまでありますか?みたいな疑問を持つ人がいるということは、わかる気もする。そんなに祈祷しないとダメなの?
実際イスラム教を創始したムハンマドは、至聖三者(三位一体)は父と子と聖神(聖霊)ではなくて、父と子と母マリアだと勘違いしていたぐらいだった。
なんでこんなに大事にされているのだろう。そうすると、多分こんな感じのことを検討することになると思う。つまり
- 生神女にこれほどの祈祷が捧げられているのは、確かにその神学上、教義上の問題として、祈祷をささげるに値する方だからである、ということではないか。
- そんなのは嘘っぱちで、イシスだかアフロディティだかアテナ処女(パルテノスと彼女は呼ばれるが、それは教会が童貞女と呼んでいるのと同じ単語です)の祈祷が残存しているだけではないか。
- 実際に彼女にそれだけの功績があったのではないか。難しい神学のことはわからなかったとしても、実際に彼女が優れた人で、またお亡くなりになった後も何らかの形でその功績を残し続けているという実態があるのではないか。
教会の立場から言えば、多分1番の教義上・神学上の重要性はもちろんあるということと、3番の実際の功績ということになるだろうと思う。
で、プロテスタントさんにしても、1番自体は基本路線で正教やカトリックと比べて決定的な違いがあるわけではなさそうなんです。
自分がどうかなあと思うのは、この3番目です。
生神女に限らず、キリストがおいでになって、その方に生涯付き添ったその母親が「結局はただの人で普通の人として死んだだけで、死後の功績などというものはうそっぱちですよ」なんていうことが果たして言えるものかどうか。