これはレフ・トルストイの「エメリヤンと太鼓」の話に出てくる言葉です。
ご存じない方もおられるかもしれないのが、話自体はこんなかんじである。
エメリヤンがとてつもない美人の奥さんをもらうのだが、その奥さんが皇帝の目に留まってしまう。奪い取ろうとした皇帝はエメリヤンにあらゆる難題を吹っ掛ける。ところがこの奥さんは不思議な人で、エメリヤンをちょっと励ましてやると、とてもできそうにない仕事をエメリヤンはやすやすとこなしてしまう。しまいには1日で大聖堂を建てろとか、1日で運河を掘れとか、命じるのだが、それもなんだかんだで出来上がってしまう。そこで困った皇帝が
「どことも知らぬ場所へ行き、何とも知らぬものを持って帰ってこい」
と命じるのである。奥さんの言う通りにしてであったおばあさんから「親の言うことよりいうことを聞くものがあったらそれが探しているものだ」云々という助言をもらったエメリヤンは、親の言うことの聞かない息子が太鼓についていくのを見て、その太鼓を持って帰る、というような筋立てである。
ここでは皇帝はどんな難題にも代わる「絶対解けない難題」として、これを用意した。しかし、この「どことも知らぬ場所へ行き、何とも知らぬものを持って帰る」というのはどうもトルストイが最初でもないらしい。
考えてみるとこの言葉は言い得て妙だ。私たちの人生はゴールを最初から設定しておくというのは通常できない。
「嘘も方便」という言葉がある。これは今は「最終的な目的を達するためには嘘をつくのも導くためのものとして肯定できる。」という意味でつかわれているんだけど、これは最終的な目的がわかっている場合の話だ。つまり、第三者が「この迷路はああ抜ければいいのに」という風に見ているか、それとも難題が片付いた後に「終わってしまえば嘘も方便だった」と思うのなら、成り立つ。
しかし、その場でのたうちまわっている人には、それが嘘なのか、正しいのか間違っているのか、判断するすべはない。そうすると、自分自身の人生の問題としては、きっと「どことも知らぬ場所へいき、何とも知らぬものを持って帰る」ほかはない。たぶん、どこと知っている場所に行って何と知っているものを持って帰っても、何も変わらないのです。