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神を見る (2)

神を見る、直接的に知る、というとき、それは沈黙の中で開示される。にもかかわらず、その経験はある意味理論的なものだ。理論的?というか、知的というのか・・・

 

啓示を受けたものは、疑いようもなくそれを知ることになる。間違えて解釈することはなく、「私はすべてを知っている」という特別な感覚を持つ。それは、たとえば単に「映像を受け取る」ということでは決して説明がつかないのです。つまり、もしそれが単なる映像であれば、テレビのモニタリング番組よろしく、そこの暗がりに見える白装束の女が、実際の女の人に白い衣装を着せただけの張りぼてかもしれない、その意味付けを明らかにすることができないから。

沈黙のうちにそれを見たとしても、それが「神の言葉である」と知るということは、つまり、その見るということの中に理論的な何か、知的な何かがすでに内包されていると考えるほかはない。

 

世界はある法則に従って展開している。その世界というのは、純粋な対象世界というのが存在する、というわけではなく、ということは物質的世界とか、視覚・五感の対象世界というかそういうものが存在するというわけではない。それも、何らかの世界の法則を我々がそこに認めて、それは物質だとか視界だとか言っているわけで、あるがままの目の前はとにかくある一定の法則で展開しているだけである。それに、我々がどこまで自分を開けるか、それをゆだねられるか、それに開けたり委ねられたりする自分であるか、エネルギー的な自己であるかどうか、ということにかかっている。そして「見た」と言っているときに、同時にわたくしたちは世界が展開する法則そのものを実現する、英語でいうところのリアライズは理解だけれど、リアルなものとするのだ。
そういう場合聖書は「現れた」などという言葉を使って表現する。φαίνεταιみたいな言葉ですね。本当は「理解した」と言っても「見た」と言ってもいいのだろうが、眼で見たわけではなく、思考で理解したわけでもない、現れ、リアライズ(現実化)され、自分が世界に開いた、ということなのだ。

 

ある意味キリスト教というのは意地の悪い宗教で、そこに至るまでの「ああでもない、こうでもない」というステップを省いている。そのあるがままの世界に対して自分を開くということは、「人の子は上げられなければならない」ということなのだけれど、それ一言を言ったとしても、なんのことだかさっぱりわからない、ということになってしまうわけだ。最後の最後の肝心な一言だけしか、言ってないのです。

 

まあ、いいや。それで、「見る」ということが知というものを含んでいると決定したら何が違うのか。

方便が変わってくる。真剣に注意力を集中して何かを見ろ!とか、呼吸に注意しろ!とか、いろいろな瞑想法にあるような努力をしたときに、それは無の境地なのだとか、平安を求めるのだ、とかいろいろな「バナナのたたき売り」があるわけだが、それはバナナのたたき売りである一方、通常我々はそれを聞いて「なるほど」と思って受け取っているのも事実なのだ。それを「なるほど」と思って受け取っているのはなぜかというと、「結局、無だから何もないのだ」的な考えを受け入れているからだ。そして「無だから何もない」というのは、無明の裏返しの言葉に過ぎない。

もしあなたがそれで悟りの瞬間を迎えたとして、あなたはあれもこれも知るだろうが、それを言葉にすることができない。そしてそれまでに受け取っている言葉でもってそれを表現しようとする。そうすると「無だ」「無我だ」「何もないのだ」ということになってしまって、それはそれで正しいのだけれど、その表現に我々の頭が負けてしまって、本当は悟りの瞬間にはもっといろいろなことがあるのに、それ以上のものに進むことができなくなってしまう。結果的にまた迷いの世界に引きずり戻されることになるだろう。

 

だから多分、このことが実感できた、ということは、私自身にとっては、長い間「これは本当はどうなんだろう」と思っていたことを解決し、橋を架けたことになるのだろうと思う。

それがいわゆる「こころ」つまり、感情の問題であったとしても、信じて奇跡を起こすような意志の問題であったとしても、その事実は沈黙の世界のうちに十分存在する。

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