最近やたらLGBTの人が権利を主張したり保護されたりする傾向がある。
難しいケースもあるのだろうが、自分は基本的にはLGBTは理解できないです。ごめんなさい。
時々思うんだけど、日本語や英語ではあんまり男女の区別がない。しかし、ギリシャ語では形容詞や動詞の分詞などに性別による変化があるし、ロシア語では形容詞以外にも動詞の過去形が男女によって変わる。つまり、自分について表現するときに性別を無視して表現することができないのです。
たとえば「少し頭が痛い」というとする。日本語では「頭が痛い」というのは男が言おうが女が言おうが変わらない。もし仮にそいつがLGBTの人だったとしても、問題はない。
英語は「頭が痛い」は形容詞ではないが、たとえば
I am hungry
みたいな自分を形容する形容詞で性別を考える必要はない。ハングリーなのが男だろうが女だろうが、その表現は特に問題にはならない。
しかしギリシャ語の場合
男:Είμαι λίγο ζαλισμένος. (イーメ・リーゴ・ザリズメーノス)
女:Είμαι λίγο ζαλισμένη. (イーメ・リーゴ・ザリズメーニ)
のように違う。ザリズメノスと言ったのか、ザリズメーニと言ったのかどうかで、相手が男か女か判別できる。
もし男の子がザリズメーニと言ったら、親はそれを訂正して子供に教え込むだろう。
「お前は男の子なんだから、ザリズメノスといいなさい。ザリズメーニは女の子の言い方だよ。」
そうすると「体は男だけど心は女」「体は女だけど心は男」みたいなのは、そういう言語の国では存在できないのはないだろうか。その「こころ」って何なの?ということになる。使ってる言葉で自分のことを女性形で表現しないといけないのに「こころは男」というのはどこで決まるのか。
その辺はヨーロッパの人に聞いてみないとわからないかもね。実際にはフランスにもドイツにも、スペインやイタリアにも、言語の中での性別は存在してるが、トランスジェンダーがいないとも言えないし。
一概に言語に性別があるからトランスジェンダーがいないとは言えないのかもしれないが、やっぱり日常生活でハードルが高いんじゃないかと思う。
こんばんは、ネコです。
トランスジェンダーのこと、そうですか、語学では色々あるのですね。
それはさておき、私は、トランスジェンダーと言うものがどういうものか今まで解りませんでした。今でも全て解ったとは言えませんが、最近、私は、そのトランスジェンダーの方に直接お会いする機会があり、お話しを伺いました。その方は、性別的には男性です。とても逞しい風貌の男らしい方でした。長身で、俳優の榎木孝明さんに似た涼やかな綺麗な目をしていて、この方が男性として生きておられたらさぞ女性にもてただろうと、思ったものでした。その方は、どうしてこのように成ったか、いつそれに気がついたか、等を真剣に話して下さいました。自分の中に女の子が住んでいる、それを認めたくなくて悩んだ日々のことも話して下さいました。そして、そういう自分を認めて受け入れていく決意をしたことも話して下さいました。
女性の服を着て、女の私よりずっと素敵な女性に見えました。仕事でも、それは素晴らしい働きをされています。私の中学時代等にも、「おとこおんな!」などと陰口を叩かれ、仲間外れにされている子がいました。あの子達はきっと、今思えば、今でいうトランスジェンダーだったのではないかと思います。今の時代、彼ら彼女らも普通に生きていける権利を獲得しつつあるのでしょうか。
最後に一言、言いますれば、生き辛いのはみんな同じではないかと思っています。
ネコさん、こんにちわ。
そうですか。お会いになりましたか。
直接的に会えば違う理解もあるのかもしれないとは思います。
理由がはっきりしている場合もあるのかもしれない。
女性で前世が男性だった記憶があるとか何とかという話を聞いたことがあります。それはありえるかもしれないとも思います。結果的にその方は女性として人生を送っておられるようです。
だけど、それでもまだちょっと理解できないところはあります。