先日金曜ロードショーで「千と千尋の神隠し」が放映された。何度も見た作品なのだけれど、まあ、この作品はみたいなと思って。
映画そのものも好きなのだけれど、エンドロールの「いつも何度でも」の歌がいい。千尋が訪れた不思議の町の街角や風景が、色あせた昔の写真のように背景にあるのもいい。
お風呂を洗いながら歌いたくなる歌だ。
なんで、お風呂掃除?
いいじゃないですか。そこは一人で何となくいるところなんだから・・・が。
最近自分はピッチの日本語の歌詞とギリシャ語の歌詞を比べてみている。「いつも何度でも」を歌いながらも、なんとなくそれに該当するギリシャ語を探している自分に気が付いた。そして同時にそれが結構難しいことがわかった。
「呼んでいる 胸のどこか奥で いつも心躍る夢を見たい」
ギリシャ語の動詞は数・時制・態で変化するから、「呼んでいる」という言葉は「誰が呼んでいるのか」という前提がいる。名詞や形容詞は性・数・格で変化する。たとえば
κάποιος σε καλεί. 「誰かが君を呼んでいる」
と訳すこともできる。
κάποιος(カピオス)は「誰か」なのだけれど、この人は男性で一人だということになる。
そうだなあ、あるいは
υπάρχει μια φωνή που καλεί σένα από την βαθιά του στήθους σου.
「あなたの胸の底からあなたを呼ぶある声がある」みたいなのはどうだろう。でも、胸はστήθοςでは人間の肉体的な胸みたいだから、これこそψυχή(たましい)みたいな訳を当てないといけないのか。
そしてその呼んでいる内容というのは「いつも心躍る夢を見たい」と呼んでいるのか。それともこれは別々の文章で、呼ぶ声があるから、いつも心躍る夢を見たいのか。たぶん意味としては、この人は普段はなかなか自分の思うことが実現できない状況にいて、「こういう理想的なことをしましょうよ」と呼んでいる声がしょげ返っている自分の胸の奥から響いてくるということなのだろう。
と、こうしたものを訳すためには、かなり熟読して、その正確な意味や作者の意図を理解していないとできないということを、改めて認識しました。日本語って、その辺がかなり漠然としていても情景が描写できる言語なんですよね。
ピッチのギリシャ語とかすごいです。ただ単に訳しているだけではなくて、きちんとアクセントを合わせて韻を踏まなきゃならないんだから。
もっとも、ぴちぴちピッチでもセーラームーンでも、ギリシャ語に訳される前に、おそらくフランス語やスペイン語などに先に一度訳されているからね。彼らはじかに日本の言語から訳す苦労というのをあるいは背負っていないのかもしれない。
もしそうだとすれば、とても残念なことだ。お互いに理解がないのは。
鳥取の雪のニュース見ました。
管理人さんは雪大丈夫だったでしょうか
りんねさん、こんにちわ。
ご心配ありがとうございます。
なんとかかんとかなっていますよ。