畑で不要な竹とか伐採した木、刈ったカヤなどを燃やすことを「くよし」とこの辺では言っているのだけれど、先日それをやったら、2日後ぐらいに顔の目の周りが腫れ上がってしまった。ハゼに負けてしまったのだ。
何でも、そのあとほっておくと汁が出てくるとか何とかで、医者に行くと注射を打ってくれるとか何とかということだったが、どうせ数日で治るのに医者に行くのは自分は嫌なので、それでは温泉に行きましょうということになった。
海潮温泉に行くと、こういう肌のトラブルとか、切り傷とかは、てきめんに治ります。海潮温泉はうちから7kmほどのところにある。今は300円で入浴できる桂壮という建物がある。源泉かけ流しです。泊まりの人は海潮荘という温泉があるのだけれど、自分は子供のころ行っただけで、最近行ったことはない。
秘湯がどうとかということで、最近少しずついろいろなところに露出はしているが、まだまだ知られていない。
しかし、ささくれが刺さって膿んでしまったとか、鎌やナイフで大きく切ってしまったとか、傷口が渇いてどんどん治る。ハゼに負けた肌も今は乾いて、皮がめくれてきている。地域では絶対的な信頼があって、昔から何かの事故で傷になったとか、ウルシやハゼに負けたとかいうと、じゃあ温泉に行きましょう、ということがあった。
自分は、前に書いた松江城と同じで、自分の身近にあるものがどれぐらいの価値があるのかさっぱりわからないのである。日本は広いのだから、海潮温泉ぐらいのいいお風呂は日本中どこにでもあるのだろう、ぐらいにしか思っていない。他の温泉にいろいろ行ってみるということもなかった。
しかし、最近高速道路の周辺にある温泉に行ってみた。蒜山の近く、湯原にある真賀温泉とか、なかなかいいお風呂だった。そして、湯治温泉番付なんかにも載っている。海潮は・・・載っていない。でも、どういうスタンダードで考えてみても、なかなかいい風呂なのです。
海潮温泉ですか、良さそうなお風呂ですね。そして、300円とは安い。
昔、私の故郷の寂しい村外れた場所に
「いがり温泉」というのがありました。小さい小さい温泉で正に秘湯そのものでした。赤湯で塩味がして、湿疹やかぶれに良く効くようでした。二階に泊まる事も出来て、ボロボロの温泉でしたが子供の頃、よく行きました。タオルが赤くなりました。鉄分が含まれていたらしいです。今は後継者がなくて、店を閉めたようですが、それを思い出しました。ハゼかぶれや怪我などにも効くのなら、
私の難病によるひどい湿疹にも効くと良いなあ。
昔の人びとは、中和させる注射など無かった時代だから、どんなに助かったことでしょう。切り傷が化膿したのにも効くなんてすごいです。私も、行ってみます。
この記事を読んで、聖書の中に出てくる「シロアムの池 」を思い出しました。
「主イエスが奇跡を行ったところです。主イエスが、盲人のひとに出逢い、主は、盲人の目に泥と唾を塗り、シロアムの池に行って洗いなさい、と言われそうするとたちどころに
目が、見えるようになり神を賛美しながら
帰って行った。」嬉しかっただろうなあ。昔はこのような温泉のようなものがあったのかもしれない。
ネコさん、こんにちわ。
ネコさんのところもいろいろ温泉のあるところですよね。本当はいちいち行ってみればいいのですが。
海潮にお越しになるようでしたら、ご一報ください。温泉は悪くはないと思いますよ。
シロアムの池ですか。なるほどなあ。そういう場所が温泉のようなものだったかもしれないということは考えてみたことがなかったです。
主が治された、というとそのこと自体は素直に「そうだったのだろう」と思っているわけですが、彼が来る以前から、たとえばベテスダの池に天使が降りて水を動かすときに最初に入ったものはどんな病でも癒された、という話があったこと自体も不思議なことと言えば不思議なことです。
福音書自体はそんなに多くの分量があるわけではないですが、その裏側には我々の想像の及ばないいろいろなことがあるのでしょう。
こんばんは、
熊本の方で、非常に大きな地震が群発していますが、被災された方々の無事を祈るのみですが、、。
東日本大震災から5年、この年に、何かが起こるのではと、視ておられた方もおられますね。
占星術、四柱推命 、等々、当たって欲しくない事が当たってしまう。これらの事(的中する事)に対して、ただただ驚き畏怖するばかりです。
かくいう私も、え~‼ というような星回りです。
当たりますね。当たらなくてもいいのに、当たって欲しくないのに。
寝込みそうですが、しかし、
福音書には、このように書かれています。
「その試練に対して、主は、必ず逃れる道をも与えて下さる、、」
それを信じて参りましょうか。
ネコさん、こんにちわ。
どこかの方が今回の地震を予見しておられた、というのは自分は存じておりません。
ただ、大方の話として、東日本大震災前後に松原照子さんがおっしゃっていたことは大体その通りになっていると思います。
熊本の地震は、あまりにも被害が大きすぎて、また私自身予見していたわけでもなく、私事に追われていましたので、どう申し上げたらいいものか。
死というのは、自分には何か詰将棋に似たものに思えます。もっとも突然死が訪れる人もあるのですが、その人の人生の大事な部分、一つ一つが詰んでいって、何もなくなると死ぬみたいな。この人が話し相手でいるのが当たり前、このことを実現するのが当たり前、ここに行くのが当たり前、そうした一つ一つがなくなっていって、詰むとお亡くなりになるというか。
だから、運命に対する人には、大きな何かがいるのだと思います。