自分は、お悔やみの言葉で「残念です」というのは言ってはいけない言葉だと思っていた。
お釈迦様は、この世の執着をすべてなくされたので、すべての生存の因を亡くして涅槃に入られた。般若心経でも「ぎゃあていぎゃあてい」とマントラを唱えるが、あれは「彼岸へ行ってしまえ行ってしまえ」と唱えているのです。
そうすると、今から仏になる人に対して「残念です」なんていう言い方があるのだろうか?何かこの世に心残りがあって、今からお化けになります、みたいな挨拶をわざわざしなくてもいいのでは?
しかし、先ごろの葬儀では残念ですという挨拶をいただくことも多かった。そして調べてみると実は現在の日本語では普通に使われる言葉らしい・・・実は私の方が、多分変な人だったのだ。
シェークスピアの「十二夜」で、こんな場面があった。
道化がオリビア姫の喪に服して悲しんでいるのを見て、お兄様は地獄に行かれたに違いないという。オリビアはもちろん天国に行ったと言い返すのだが、天国に行っているのになぜ嘆き悲しむのか?と道化はいう。
文化は違えど、これも一緒で、死んで天国に行くなり往生するなりしているのなら、なんでいちいち悲しむのか、というわけだ。
通常の人生でも、思いもよらないことというのはいつもそんな風だ。明日この仕事をして、友達と約束をして、こういうものを食べて・・・と思っていると、大地震が来て突然家が倒れてしまって、何もかも変わってしまうというようなことが実際起きる。災害にあった人はお気の毒だけれど、一人一人の人間を見れば大災害だけが不幸ではなくて、一人だけポンと奈落の底に落ちる人もいる。そのときには「明日こうしよう」というのが、残念なのだか、夢うつつだったのかということになる。
父が亡くなった時、私の母はたいそう悲しんだ。今でも、仏壇の前に行くと、まるでそこに生きた父がいるかのように話しかけていることがある。しかし、亡くなった直後の喪失感というものは、大変なものだった。なぜ先に行ったのか、自分があの時こうしなかったのが悪かったのか、そしてやたらちゃんとお供えをしたりしていた。
ところが、母曰く、ある日父がたいそう苦しそうにしている夢を見たという。それで、自分が父にあんまり強く執着していると、父が次の世界に安心して行けないのだろう、と考えるようになったらしい。
だから、自分としては、今後も「残念」は使わずに、「御愁傷様です」とか「ご冥福をお祈りします」みたいな、当たり障りのない言い方をしていこうとは思っている。
記事を読ませて頂いて、お母様のお寂しい心と想いが、伝わってまいりました。
近しい方の急逝は、どうしようもなく悲しいものですね。しかし、確かに世間でも言われています。あまり、逝去された方に執着すると、逝去された方が次の世界に行けないと、いつまでもこの世に未練を残し、その場から離れる事が出来ないと、確かにそれはそのような気がいたしますが、人はそんなに簡単に愛する近親者の死を受け入れられないような気が致します。
かの有名なキリスト教伝道者、内村鑑三氏は、愛せる長女ルツ子を突然の病気で亡くしますが、その葬儀埋葬時に、「ルツ子さん万歳」と叫んだことで有名ですが、天国に凱旋するのだから、また会えるのだから、悲しむことなど無いと、、
しかし、これはなかなか出来ることではないと思います。
キリスト者は、走るべき道を走り抜いて、神の召しにより天国に行く、そこで信仰の先達者と会いまみえる、とのことです。教会の葬儀では牧師が、「また会いましょう」と棺に声をかけて送り出していきます。
話をもどしますが、私も、「残念です」は言いません。「お寂しくなりましたね」とか、
長く看護をされていた方には「本当によく看てあげられましたね、○○様も感謝されておられると思います、お寂しいですね」とか、「あまり悲しまれたら、天国の○○様も悲しまれますよ」とか、言うようにしております。お悔やみの言葉は本当に難しいと思います。
追伸です。
「残念です」についてです。
あれから考えたのですが、
お悔やみに来られた方々は、亡くなられた方への敬意を表して、「残念です」と言われているのではないかと思います。
「良い働きをされて、本当に素晴らしい、まだこれから良い仕事をされると思っていたのに、残念です。」というような想いがこもっているのではないかと思います。
ネコさん、私も同じ事を書こうかと思ってました。
取引先で不幸があったりすると上司がよく使ってます。お身内にとって、また自分にとっても必要な方だったのに「残念」という意味で。
みなさん、こんにちわ。
いろいろありがとうございます。
前提として「私のほうが一般的でない」ということのようですので、あんまり気にしないで見ていただければと思います。
もちろん「残念だ」というのは、故人にとってではなくて、生き残った者から見て「残念」なのは当然なのです。
ただ、それも本当はどうなのかなと。彼には彼の人生があって、それなりの経験もした。死んでからまで、残った人が「残念だ」といってあげなくてもいいんじゃないかな、と自分は思っています。
悲しいことではありますよ。人がなくなって、近しい人で、悲しくはあります。本当はもう少し彼がいて、あの話もしたかった、あそこにも行きたかった、そういうことはありますよ。
悲しくはあるが、死者に対しては、「こちらのことはもう心配するな。迷わずに行けよ。」というようにしています。変でしょうかね。