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神の言葉を見る

神を知ることは出来ない、という。ただこの世は言葉で出来ているので、それが言葉であるということによって、見えない神を神と知ることが出来る、という。つまるところ、言葉は神なのだ。

だけど、ヨハネはそのように言ったが、これは必ずしも洗練された表現とはいえない。

それが「言葉であると見る」ということは、その「見る」ということが、単なる物理的な反応として光が目に入るというようなことではなく、それが何らかのことを彼が解釈した、ということを意味している。

そして、その理解されるべき内容は、たとえば神が見えるとか見えないとか、そんなことでは全くない。

 

それが言葉であるということは、ある種の理論的背景なのだ。確かにそのときに人はまるで見たことがないものを見る。そして、それはわれわれの通常の理解を超えている。だが、もし単に見たものが理解できないだけであれば、光っていたとか、うれしかったとか、とんでもないことだったとか、多分そういう表現をするだろう。あるいは、過去の経験に照らして未知だというだけなら、「見たことのない、巨大な・・・」みたいなことになったのかもしれない。

その見たことがないものを見たときに、「美しい光の流れの湧き出る、生きたなんとか」みたいな表現をするのではなく、「言葉」なのだという。それに対する理解や法則性の知識というものが、言葉にならなくても同時に受け取られているので、見るものはそれを何らかの形で表現することを強いられる。

本当はそのときに、「言葉」以外の別の単語をつかったとしても、それは見るものの個性であり、なんら問題はない。多分、教会がやっているように後生大事に「言葉だ、言葉だ、言葉だ」といわなくたっていいと思う。

だが、それが「言葉」だというのは、実にピタッとはまる表現なのだ。

 

人が言葉で追いかけようとすると、すっと逃げてしまうわけだが、にも拘らず、「信じる」ということの中身には、実はある種の知識・理論・法則とでもいえるものが前提されている。それをするのは「エイッ、ヤーッ」かもしれないけれど、その「エイッ、ヤーッ」には、後々人々がああでもないこうでもないという、多数の前提が含まれている。

神の言葉を見る」への2件のフィードバック

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