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生き残る理由

生き残るかどうか、というのが、前の記事で話題になったので、自分の見聞きしたいくつかのことをお伝えしたい。

 

一人は、難病を患ったご婦人です。この人は、もうこれもずいぶん前の話になるが、小学校に入らないかわいい御嬢さんがいらっしゃった。でも、ご主人とはもめて離婚されていた。ご家庭・ご兄弟の好意で、暮らしに困るというようなことはなかったと思う。ご自身は生命保険の営業をされていた。

しかし、ある時大変な難病にかかって、生死の境をさまよった。自分がこの人からこの時の状況を聞いたのは後からの話だった。

この人も、いわゆる「臨死体験」をされていた。確か、お花畑みたいなことを仰ったと思う。すごく幸せ、美しくて、こっちに来たらどう、みたいな雰囲気だった。ところがその時に、この方は一人残している御嬢さんのことを思い出した。この子を残してはいけない。自分が何とかしなければ。そしてこの人は帰ってきた。

今はテレビとか本とかでそういう話はたくさん出回っているから、月並みな話として受け取られるかもしれない。しかし、自分にとっては近しい人だった。

 

長司祭ヤコフ日比神父は、戦時中・・・確か東京と仰ったと思う・・・軍需工場で働いていた。古い方はご存じの向きも多いだろうが、兵隊さんになるには、体格が立派で健康状態がいい人が優先される。甲乙丙と順番が付けられて、丙種というような身体が小さくて虚弱な人は、後回しにされて、工場勤務になったりした。終戦間際で赤紙が来て、行ったらすぐに戦死した方も多いと思う。司祭さんも体が小さかった。

その軍需工場が爆撃にあった。彼の周りの人は、残酷な話だが、皆死んだ。彼のいるところに工場の煉瓦の壁かなにかがあって、その陰で彼はそのときに、「自分が生きていて役に立つなら、神様、どうぞ私を生かしてください」と願ったそうだ。そして、彼は一人生き残った。

私は司祭として長く生きてこられた姿しか知らないから、すべての業績を語ることはできない。この戦争の時期にすでに聖職に関係しておられたのか、戦後神学校に入られたのか知らない。いずれにしろ、戦後、彼の指導で教会に入った人はたくさんいたし、自分のタイプライターを所有して、様々な文書を自ら作って多くの人に継続的に送り続けておられた。

 

先の音楽家の一年も、一応これが理由だ、といえる理由はあるといえばある。本人は何かをしゃべったりはできなかったが、その一年は貴重な一年だったと思う。

人は漫然と死んだり、漫然と生きたりするわけではない、と思う。やっぱり理由はあるのだ。でも、もしその空襲の時に、神様のことも何もなかったらどうだろう。そんな仮定はしても仕方がないが、そうした出会いなり、力なり、思いなりがその時までにあるかないか、という違いはあるかもしれない。

理性が考えると、どうしても平らな入れ物に並べた豆をよりわけるように、これはいい豆でこれはダメな豆みたいに考えてしまう。大震災、津波なんかで亡くなった人はどうなのか?

それでも、ほんのわずかなことがその岐路を分けるということはあると思う。ちょっとだけ放縦な生活をやめよう。小さな目標をもとう。ちょっとだ善行をしよう。

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