わたしがかつて教わった司祭さんと何かのことでいろいろな話をしているとき、「神様、お金をくださいという祈りがあってもいいんだ」と仰っていた。
そのときは、そのことの意味を深く考えることはなかった。
今になって、多分そうだったのだろうと思うのは、日本のキリスト教、多くの場合プロテスタントさんだろうが「現世利益を求めちゃダメだ」という考えが非常に浸透しているのだろう。
この世では貧乏に甘んじ、苦しみを受け、試練を受け、死後なのか何千年も先なのかよくわからない先々の話として天国に入りましょう、的な考えです。
これはキリスト教だけのことではないと思う。宗教的な真理には日常生活からは想像もつかないような事実が存在していて、それはこの世のいろいろなものの否定から実を結ぶような類のものといえるのかもしれない。
自分も神父さんに言われたときに言わず語らずの理屈として、「金持ちは天国に入れない」わけだから、なんでわざわざこの司祭さんはこんなことを言っているのだろう、ということはうっすらと思った。
多分、キリストが来た時には、彼のいうことや話すことが全部が全部わかるわけではないけれども、実際に彼の存在があり、彼が決して治らない病気を目の前で治したり、希望を失った人々に希望を与えたりする事実が目の前にあって「天のイエルサリムがいつやら知らんけど、この人ならついて行きたい」ということで彼に従った人もいたと思うのです。
彼がいるときに、生まれつきの盲人の目が開いた。それを見て「ああ、これはすごいな」と思ってキリストに従うのがありだとしたら、2000年も先の世になって「具体的な利益を求めちゃダメだ」と言ってる人は、実はなんかずれてないだろうか。
現世利益を求めるのがいい、というわけではないのかもしれない。積極的に肯定してはいけないのかもしれないということは、同意できる。いくらでも億万長者にしてくれ、などというのはいけないとは思う。
だがいろんな人生がある。
人生では、思いもよらないようないろいろなことが起こる。金がないということも起こる。お金持ちの人でも子供さんに困難があるとか、病気になるとか、あることが解決してもなかなか解決しないことがある。ほかの人から見ると「そんなこと、どうでもいいじゃないか」というようなことが、その人にとって深刻な悩みであり得る。
そのときに、あまりにも「これはこうでこうでこうでなければならないのだ」「これこれを解釈するとこれこれこれが正しい」という硬直した教義という四角い箱に自分を押し込んで身動きが取れなくなるのがいいのかどうか。
自分の出発点というものを誰もが大切にすべきなのだと思う。
自分は誰か。
なぜここにいるのか。
自分の願いは何か。
それがはっきりしていれば、案外解決は簡単に訪れるのだろうと思う。