核兵器を持つということについて、「抑止力」ということが言われる。ある国が非常に優れた軍備があって、隣国に攻め入る。そのときに、この国に対して核を使い数十万人が一度に死ねば、どんなに軍備に優れた国でも反撃しないだろう。だから、「俺の国には核があるぞ」と相手を脅すというのがこの「抑止力」の意味だ。
この核による民間人の死者は、他の兵器による民間人の死者とは比べ物にならない。広島では一日に14万人が死んだ。長崎の爆発は完全な成功とは言い難く、全部のプルトニウムが瞬時に爆発したのではなくて一部に収まったとは言うものの、それでも7万人が死んだ。
もし長崎原爆がちゃんと爆発していれば、死者の数はもっと増えた。そして、これは最初期のいわば「実験」に過ぎない。東京で1千万人、中国の各都市でも数百万人の人口があるわけだが、おそらく今の核弾頭をそこで炸裂させれば、少なく見積もっても100万人ぐらいの死者はでるのではないだろうか。
「俺は一度に100万人殺せるぞ。どうだ、俺に歯向かう気があるか。」というのが、抑止力の意味だ。
しかし、いままで核を持った国に対して核を持たない国が歯向かったケースは存在する。たとえばベトナム戦争でのベトナム対アメリカ、イラク戦争でイラク対アメリカ、カダフィ大佐のときのリビア対アメリカのような戦争の時、アメリカは核を持っていて他の国は持っていなかった。しかし、このときアメリカは核を使わなかった。核は使わなかったけれども、たとえばバグダッドはアメリカ軍によって爆撃され数万人の民間人の死者が出た。でもいずれにしても、核兵器が本当に使われたのは広島と長崎に限られる。なぜ?
アジア人の死者は、欧米の死者に比べて過小評価される。ピカソがゲルニカを描いたということで、大きな絵が有名になった。ナチスドイツがスペインのゲルニカの民間人に対して無差別爆撃を実施したということなのだが、調べてみるとゲルニカで死んだのはたった4000人かそこらに過ぎない。いや、まあ、4000人ならいいとは言わないが、東京大空襲で11万人、広島で14万人、数%に過ぎないじゃないか。4000人の死者なら世界的画家の立派な絵で、11万人なら日本人が悪い奴で爆撃が正しかった?ちょっと民間人の死者としては見劣りがするよね。
しかし、それでも「核の抑止力」の名のもとに、アメリカは空爆を繰り返している。コソボもそうだし、イラクもそうだ。
つまり、「核の抑止力」というのは、要するに「アメリカ本土が無事」ということなのだと思う。日本のどこかに核が落ちても、ソウルに爆撃があっても、東南アジアのどこか、バンコクとかシンガポールとかがやられても、アメリカ本土は「核の抑止力」によって無事だ!あそこでアメリカが核を使ったのは正しかった。アメリカ本土が無事だからだ。
必ず!必ずアメリカのどこかの都市に核が落ちる。
その時になってようやくアメリカ人は自分たちの考えを変えなければならなくなる。
「広島に核を落としたのは誤りだった。こんなに悲惨なものだなんて・・・」でも、アメリカに核が落ちない限り、アメリカ人は「日本人に核を落としたのは正しかった」と言い張るだろう。
ということは・・・必ずアメリカで核が爆発する。
それ以外にアメリカ人の考えを正常に改める手段がないからだ。