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17歳

先日、10代の若者がプロフェッショナルさんのところに弟子入りする番組が放映されていた。全部見なかったのだけれど、少し見た。

なんでも、若者たちはてんぷらのプロと、お掃除のプロと、編集者のプロにそれぞれ弟子入りして、店の手伝いをしたり、編集者に自分の作品を見せたりしていた。

 

複雑な気持ちがした。

本当にそれでよいのか。

我々はつい、道というのは一本道で、向こうに行けば行くほど、何か達成をしたかのように世界を見て、そのように評価する。でも、それは本当か。もっともこれは、達人の側に問題があるのではなくて、そのように編集しているNHKに問題があるのかもしれない。彼らは何かのドラマをこしらえて、視聴者に「それ、どうだ」とそれらしいものを訴えかけなければならない。
多分達人自身もそう考えているわけではないと思う。たとえば掃除の達人がいたとしても、自動掃除機ロボットを開発した人にあえば、「何をやっているんだ、俺様が達人だ」とは言わないだろうと思うのだ。

 

自分が17のころは?

自分は普通に受験生で、部活もした。手を抜いたということはない。ひけらかしたくはないが、結局それなりの成果は出たからだ。それやこれやであるにもかかわらず、自分はファン・ラモン・ヒメネスのいう「神の犬」だった。

掘ってくれ、掘ってくれ、ここにある!

つまり、その日常生活にない未知のものが自分の隣にあると信じ、それを・・・見つけた・・・のだった。自分は一種気違いだったのだろうと思う。周りの大人もたぶん手を焼いていたことだろう。

 

そのころと比べて、神のことについて、今のほうが何か進んでいるということは言えないと自分は思っている。人生をいろいろ経験した。年も取った。学生のころからあれこれバイトもした。海外にも行った。しかし、年を取ったり人生でいろいろな経験をしたから、だから、神のことをよくわかるようになったということは結局言えないのだと今は思う。

今日は1m先に行った、今日はもう1m先に行った、そのようにしてずっと先に行った・・・と我々は考えたい。だが自分は違うと思う。少なくとも、神に関することはそうではないと思う。

 

誰もが海岸を歩いているが、誰一人海に足を踏み入れてみる人はいない。ある人は海岸を10m歩いた。ある人は100m歩いた。ある人は一生海岸を歩いて満足して人生を終わった。

海に入るかどうかは全く別のことなのだ。別に10歳で海に入ってみてもよい。20歳で入ってもよい。先に行けば行くほど、海に入るのは難しくなる。しかし、海は海岸からすれば、いつも隣り、ほんの一歩横にいつも存在している。
いい年になって「おれは海岸をこんなに歩いている」と言っている人は、海に入ったことのない人なのだ。それで、一歩海に入ったからと言って、突然品行方正になったり、聖人君子になったりするわけではない。アホはアホのまま、スケベはスケベのままだ。

 

17で海に入れるなら、海に入れ。

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