細かいことを説明するのは大変なんだけど、ある程度夢に対して支配力を持ちたい。
ちょっと前に、比叡山の修行で「好相行」なるものについて聞いた。不眠不休で五体投地をして、仏様が見えるまで続ける。そのあと何とかという修行があるらしいのだけれど、実際にその行に挑戦した人が、2回はドクターストップがかかり、3回目にちゃんと仏様が見えたと書いておられた。
それを読んで思った。これは、自分の信仰が足りないってもんだよね。つまり、そこに本当はマリアさんだっておいでなんだと思う。自分が見えてないだけで。
で、そのためには、ずっと「その状態」にいなきゃダメなんだ!つまり、意図するということ。止まるということ。
さてそんなことを考えていて、先日ある夢を見た。
学校の夢というのは以前からよく見るんだけど、ここは建物がいっぱいあって、この棟の向こうには別の棟があり、その棟の向こうには別の棟があり、さらにこちらとあちらに棟があり・・・みたいなので、目的の授業に行くためにどこにどういったらいいのかわからない。
恐らく目的の学級はあそこなのだろうが、そこに行くためには下駄箱に下ばきをしまわなければならない。ところが、その下駄箱がたくさん並んでいて、自分がどこにしまったらいいのかわからない。
どうも授業は始まっていて、そこに行くのが恥ずかしい・・・
これ、なんとなくわかる。その恥ずかしい気持ち、自分が何かができていない、自信がもてないというのが、この夢の味噌で、自分の今の状況と関係はしていると思う。
しかし、自分はそこで目が覚めて、思った。
結局、夢の中でも幸せで満足していなければダメなんだ。あるべき姿は、常にさいわいということ。
夢は何かを告げてくれてはいる。それはそれで大事なことなんだろうと思う。
だけど、それでも、満足というもの、感情的な解決というものは、夢の中にまで及んでなければ結果を生まないのだと思う。
それでふと思ったのだけれど、生神女マリアさんを賛美する歌で「常にさいわいにして」というのがある。
常にさいわいにして全く傷なき生神女
我が神の母なる爾を幸いなりととのるは真に当たれり。
ἀειμακάριστον 常にさいわいである人
ということだけれど、あれはこのことを言ってるんじゃないか。
ヨガナンダ師の話に出てくるインドの聖女でアナンダ・モイマという方がおいでになる。四六時中サマーディの恍惚の中にいて、お弟子さんが回りについていてあげないと、何を食ってるのかもわからない、みたいな。しかし、今インターネットの時代になって、「アナンダモイマ」を検索すると、なんとなんと、びっくりするほどの美人じゃないですか。おばあちゃんになっても、すごく魅力的だ。
そういうことですよね。多分生神女にあっても、彼女は常にさいわいだったに違いない。そうでないと神の母として選ばれなかっただろう。
記事と無関係のコメントですみません。
島根県の津和野のお寺で女性の遺体発見の記事を見かけました。
それ見るまで私、津和野って山口県にあるとばかり思い込んでいました^^;萩・津和野ってセットでツアー組まれてるから。
ホロスコープ出してみたら・・
発見時刻だと8ハウスが牡羊座0度20分。
そのまま読めば火星が遺体の方、ってことですかね。
アスペクトは冥王星180度のみです。
早く身元がわかると良いですが。衣類的に若そうな雰囲気でしたので・・。
あめさん、こんにちわ。
記事にしました。表示性は火星でしょうけれど、アスペクトが何か違うような気がします。