以前は、子供の発達障害について、高機能自閉症だのアスペルガー症候群だの学習障害(LD)、ADHD(注意欠如多動性障害)だのといった分類がなかった。自分も近い身内にそういう人がいて、特徴もなんとなくわかるし、学校などでもそれなりの対応をしてもらったりした。有名人でもそういう人がいるということになっていて、エジソンがそうだとかモーツアルトがそうだとか、さらに先日はウラジーミル・プーチンがアスペルガー症候群だ、などというニュースが出たりした。
かくいう自分自身、最近いろいろな人から、お前はアスペルガー症候群ではないかなどと言われることがある。自分でいうのはおこがましいことだけれど、自分の場合小さい時の学校の成績やスポーツとかかなりよかった。授業についていけないとか、素行が悪くて困るといった問題を起こしたことがなかったから、たとえば特別学級に行くというようなことはなかった。
ところが担任でもなんでもない保健の先生から、何かのできごとで外出してフランクに話が交わせるときに「あなたは何か普通でないところがある」みたいなことを言われて、あれこれの行動を指摘されたことがある。別にその行動は自分にとって理に適っているように思えたので、その発言は私は当時理解できなかった。だけど、大人からそういうことを言われて、学校の一人の子供としては気持ちよくはないよね。だからなんとなく未解決のままになっていた。今考えてみれば、当時のその保健の先生も、私の状態を言い表す言葉を知らなかったのかもしれない。
そして、今までアスペルガー症候群だと言われてきたその身内が、実は私もそうなのではないかという。さらに先日教員をやっている妹から、「特別な才能は持っていても一種社会性の欠如した」アスペルガー症候群の一例みたいな言い方をされてしまった。小さい時から見ている兄弟に、多分そういう特徴を持った人間として見られていたわけだ。
まあ、自分のことはどうでもいいのだけれど、このアスペルガー症候群の人は、自分にはグルジェフの言うクンダバッファーの働きが何らかの理由で最初から弱い人のことではないかと思う。
彼は人間を三脳生物と呼び、思考センター、感情センター、動作・本能センターというそれぞれ独立した3つの脳を持つ存在だと規定した。これらのセンターは正しく結びついていないといけないのだが、人間にはこのセンターの間に緩衝材(バッファー)があって、真実を見るのを妨げているというのだ。本来このバッファーのある位置にはその人自身がいなければならない。このその人自身のことを彼は本質と呼んだ。
このバッファーは、しかし、その人の社会性を保つのには大変役に立つ。多分。常識とか、普通とか、そういうものはこのバッファーで構成されている。グルジェフが言うには、人の本質・意志は大抵未発達で、突然バッファーが壊れたりしようものなら、その人はやっていけなくなる。だが、真実を見るためには、一度はそのバッファーを壊さなければならない、という。ここで彼は師の必要性を説くことになる。バッファーがなくなって、意志が未発達の状態にある人は、信頼できる他人に従うということで、徐々に意志を発達させるしかない、と。
自分自身のことはわからないということにしておくが、しかし、私がいままで外部でみてきたところでは、アスペルガー症候群と言われる人が集団の中にいて、何かそのためにトラブルが起きるようなことがあると、常に周りの大人たちは「今起こっていることのうち、何が本当に大事なことなのか」ということに直面することになる。彼は突拍子もないことをしてしまうけれども、道徳的に考えて間違っているとか、理論的に考えて理屈に合わないとか、そういう問題では全くないのだ。
こんばんは、ネコです。
記事を読ませていただいて、
まさに、私もそのとおり! アスペルガー症候群だと思いますです。
うん、納得です。思い当ります。
私の小さい頃は、小学校の頃とかは、あまりそのような事は話題にならなかった。
アスペルガー症候群、ADHD、LD、今思うと確かにそういった子供はいました。
さすがLDの子たちは、特別学級とかに入っていたような気がする。
私は、特別学級にいくという事もなく、
周りに迷惑をかけるという事もなく、静かな、しかし確かに成績は良かった。
身体は弱かったけれど、もくもくと走ることが大好きだった。
その当時、別に周りに迷惑をかけるでもなく、多動性障害でもなく、ともなれば
周りから悪い方で注目を引くこともなかった。
当時はみんな生きることで精いっぱいだったような気がする。
私も、社会的に困ったことをするでもなく、道徳的に外れることはなおのことなく(私のモラルに反する)
だけれども、自分はなんとなく他の人より変わっている気がする、それに気がついたのは大人になってから。
でも、、、いいじゃん!別に、、。
最近、それを考えて、
これは遺伝的なものか、それとも小さい頃、身体が弱くて幼稚園にも行けなくて(生き延びたのが奇跡くらい)、早くから社会性が育たなかった為か、、。
私には、孫が2人いるけれども2人とも性格がまるで違う、。
同じ環境で育っても、こんなに違うのかしら?
1人は私に良く似ている!? 私と別に住んでいるのにも関わらず、、。もう1人は全く別人、。
私は、今まで子供の性格は、環境によるものが強いと思っていたけれど
うん、これは研究の余地があるかも、、。
バッファーとからめて考えてみます。
ネコさん、
ご理解いただいてありがとうございます。
仰っている内容のうち、お孫さんの性格がまるで違うというのは、本質です。
子供は最初からその人として生まれてきます。
その子は最初からその子なのです。
このことが、占星術を支える基盤になっています。
出生時間が、何かその子に影響を与えるという考え方は、本当はありえないことです。なぜなら生命としてのその子は受胎の瞬間から成長するからです。
その子は最初からある性格を持ち、その性格の通り道となる運命を選び、生まれる時を選んで生まれてきます。
バッファーは人格です。人間のうち、物理的な状況、環境にによって左右される部分です。
たとえば、ある人が立派な人格と言われるような多くのケースで、その人はその人格です。
ネコです。こんばんは、時間が経ってからですみません。
質問ですが、
「バッファーは人格」と言われていますが、
私は、「人格」はその人の持って生まれてきたものと思ってきましたが、
人格は環境によって左右されるとお考えですか?
ネコさん、こんにちわ。
すみません、これは私は特殊な用語を使っています。
その人はその人として生まれてきます。そういう意味で一般的な言い方で、「その人は一定の人格を持って生まれてくる」ということはできます。
ここで人格というのは、グルジェフが人格と本質を分けたことによっています。
人格は、後天的に作られるもので、教育や環境に左右されます。一方本質はその人自身です。彼の言い方でいうと、占星術は本質にしか関わらない。
今回の記事の中ではバッファーは人格そのものなのです。
自分も多分にそういう傾向があって、共同生活が苦手で今みたいな仕事をしています。
学校でも社会でも、そんな言葉が作り出す以前よりも居場所のバラエティが少なくなって、
目立つだけなんじゃないかなぁと思います。
大半の日本人が農村で暮らしていた時代は居場所がいろいろあったのでは。。。とも思います。
灸太郎さん、こんにちわ。
そうですね。技能職や自営業に落ち着くというのは、あるかもしれないと思います。
いちいち他の方にはお話になれなくても、職場などでご苦労などはあるのだろうと思います。
農村の問題もそうですね。
思いますに、今は政府というのか、自治組織というのか、Governmentの単位が大きくなりすぎていて、地域のコミュニティでお互いに解決するという部分が弱くなりすぎているということについては、しばしばそうだなあと思います。
灸太郎 さん、
はじめまして、失礼します。
アスペルガー症候群についてコメントした者です。
「共同生活が苦手、、、」そうですね、私の場合、苦手というよりかキライなんですね。
似たようなもんですが、、。別に共同生活が出来ないわけではないんですが、
気が付くと、はみ出している自分を感じるのです。
別に迷惑をかけているとは思わないんですが、、。
要するに群れるのがイヤなんです。
みんな一緒、同じでないといけないというのはおかしいと思っています。
今も昔も、居場所を自分で確保していくしかないかな、と思っています。
ネコですさんこんにちは。コメントに気づくのが遅れました。すいません。
日本は同調圧力が強い国だとは思いますが、
それでも昔は居場所にバラエティがあったようです。
居場所のバラエティが減っているのは日本の問題というよりも、
世界的な資本主義社会の矛盾かもしれません。
大阪に愛隣地区というところがあります。東京の山谷みたいなところですが、
そういうところに集まる日雇い労働者やホームレスは、
共同生活が苦手で、
居場所がなくなった精神障害者がかなりのわりあいでいるそうです。
わたしなんかも、そういうところで生きていても変じゃないなぁ。。。
と思ってます。
ネコです、
灸太郎さん、ご丁寧にコメントありがとうございます。
そうですね、日本は確かに「同じでないといけない、、」というものが強いように思います。
同調圧力の怖さですね。
違う意見など発言しようものなら、協調性が無い、士気が下がる、そんなことを言うのなら辞めて下さって結構ですよ、、、とか、、。
「同調」しないことはそんなに悪いことですかねえ?
他所の国とかはどんなのでしょうかね。