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判断を挟む余地

占星術、ホラリーにおいては、「こうなる」という判断をする。「これこれこういうことで困っています。Aしたいと思うのですが、Aになりますか、Bになりますか?」という場合、私はAですとかBですと答える。具体的には見つかるとか見つからないとか、旅行に行くとか行かないとか、いろいろですが、簡単にABとしています。

 

ところが、微妙な判断を経験した。

 

Aしたいけど、AかBかと問われた。YES/NOで選べば、完全に質問者の希望するAなのだけれども、同時にあらゆる判断の基準が配置が良くない。しかし、これは規則に基づいてAになると答え、しかし、何らかの懸念がある旨を伝えた。

 

しばらく時間がたって、非常にラッキーな経緯をたどってAになった。私の占断は当たったのである。いやいや、悪いけど、私は当てるつもりでやってますよ。

ところが、それがAになったことによって、別の大きな問題が起こったのである。これも当たったのだ。これも、もっと相談者の状況にたっていれば、予想できない内容ではなかった。占星術的にではなく、人生として経験的にである。

 

何にも間違ったことはしてないですよ、占星術師として。

 

だが、あの時点で「これはラッキーにAになりそうだが、Aになった場合Cという大きな問題が起こる。Aになるだろうけど、なんとかしてAは避けておいたほうが良い。」と答える選択肢はなかったのだろうか。

 

一応こうしたほうが良いということは言ってもよいが、星自体はもっと直接的・強制的なものに私には見える。「旅行に行ったほうがよいか」などと聞かれると、私は「おいでになったらいいと思います」とお答えするかもしれないが、星の感じはこの人は間違いなく行くだろうという感じで出てくるのが普通だ。

もし私がホラリーや易のような手段を全く使っておらず、出生図だけ、四柱推命でいう命式表だけで判断するとしたら、恐らく結果がはずれたとしても、そういう回答をする余地があったのかもしれない。しかし、結果が外れたかもしれない。そうなると占いとしては評価を下げたかもしれない。

 

今のところは、仕方がない。占星術師としての顔で動いている間は、その方法に忠実であるしかない。

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