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音楽への疑問

音楽というものが完全に信じきれないのは、グルジェフのせいが大きい。

なんか素晴らしい音楽家、たとえばグラミー賞を取った内田光子さん、素晴らしいに違いない。そこには間違いなく幼少からのたゆみない訓練と大変な努力がある。疑いようもないのです。素晴らしい音楽は素晴らしい・・・でも、なんで?

昔は自分は一日何時間もギターを練習したことがあった。昔を知っている人は、私はギターがうまいと思っている。今は弾くことはない。なかなか自分の時間を割いてこの問題と向き合うことができないでいる。

 

手元にはないのだけれど、グルジェフと子供時代を過ごしたフリッツ・ピータースという人が書いた「魁偉の残像」という書物がある。

その中で彼はある実験をしている。グルジェフはある女の人と知り合って、その人が特定の条件に合う特別な人だと理解して、音楽会をする。そして、ピアノの曲を用意し、「この和音がなったところでこの女の人は気絶する」と著者に告げる。非常に劇的なその音楽が演奏され、その和音がなったところで、果たしてその女の人は気を失ってしまう。

その後、グルジェフは巧みな話でその被験者との関係を改善したのち、著者にいう。音楽についての研究が進まないのは、半音に反応する人がごくわずかしかいないからだ。もう少し細かい何分の1音かを出せる楽器があれば、誰でも今日の女性のように気絶させることができるのだ、と。

 

こうした話は形を変えながらグルジェフに関係する著書に繰り返し出てくる。

そういうことがあるとするなら、たとえば超絶的な技巧で演奏される何か素晴らしい曲というようなものにどういう意味があるのだろう。多少下手であったとしても何か一定の条件を満たしてさえいれば、特定の反応を対象に及ぼすことができるかもしれないではないか。

ビザンチン音楽にこだわるというのも、結局はビザンチンが半音よりずっと小さい区分を使い、西洋音楽とは別の理論体系を持っているからだ。そこには、「多分こういう旋律を作れば、人々はたぶんこう反応するだろう」ということを作った人が考えただろうと思えるから。

今更こんなことを書いててもどうかと思うのだけれど、そういうことを全く知らない人もいると思うのです。

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