ひとつの宗教的な達成があって、何らかの証が得られたときに、他のものを否定してしまうのはたやすいことだ。
日本の仏教、禅宗系の教えにおいて、いわゆる悟りの経験というものは、ハッキリした一つのステップであり、それを得ることは大変難しい。
そしてそれを得るということは、それなりの教えの裏付けもはっきりしている。
プロテスタントにとっての聖霊の体験というのもそうなのだろう。プロテスタントは聖伝というものを否定した。それゆえ、直接的に「これで主の恩寵が得られた」という一つの達成ポイントを設定する必要があったのだろう。それもまた教学的な裏付けははっきりあるのである。
しかし、世の中は違う宗教も存在する。悟りのために仏教で教える教学というのは、一応の筋がある。禅は不立文字だとはいうものの、アートマンとブラフマンがあります、みたいなことは言わない。まして、カーリー女神を崇拝しましょう、みたいなことは言わないだろう。
では、カーリー女神を拝んでさまざまな奇蹟を行ったラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダのような人のことは禅僧は説明できるのか?
なるほどそれなりの達成をした、しかし、そういう達成があった宗教にイスラムは攻め込んできて、何億人もの信者を得ている。するとイスラムの教えは「全然ダメだ」と切り捨てていいものだろうか。
自分はイスラムのことは知らないけれども、キリスト教のことでは同じようなことがあった。自分は日本人で、東洋の考えを持っていて、彼らに接した。彼らには別の前提があり、東洋の理解は持っていないが、彼らには彼らの証がある。そして、それもそれで正しい。皆正しく理解しているのか、すべてにおいて正しく理解しているのかというと、それは突っ込みどころもあるだろう。しかし、とにかく全体としては正しい。伝えたいものがあるのだ。
本当は仏教のことを学んだ人が、「キリスト教のこれは実はこのことを言っているのだ」といい、キリスト教を学んだ人が「仏教のこの教えはキリスト教ではこのことなのだ」と言えなければならない、と思う。もちろん、仏教は先尼外道はダメだと言い、キリスト教徒はキリスト以外の他の神様を肯定してはいけないだろう。まず先尼外道を否定して悟りを開くべし。しかし、そこまで来てから、「お前ん所の話は何も聞くつもりはないから、一からこちらのことを聞け」みたいな態度では、結局大して何もわかっていないのだろうと思う。