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縁起

縁起というのは仏教の中心思想で、元々は「依るものがある」という考え方だと理解している。魂があるともないとも言わないが、人は転生してあそこに生まれここに生まれるとお釈迦様はいう。火は依るものがあるから燃える。命は依るものがあるから転生する。世尊は一人依るものを滅して涅槃を成就した。

菩提樹の下で悟られた内容については十二支縁起と言われている。

無明によって行為がある。
行為によって認識がある。
認識によって名前と物質的形態がある。
名前と物質的形態によって六つ感覚器官がある。
六つの感覚器官によって接触がある。
接触によって感受作用がある。
感受作用によって渇愛がある。
渇愛によって執着がある。
執着によって存在がある。
存在によって生がある。
生によって老いや死の苦しみがある。

無明が滅すれば行為が滅す。
行為が滅すれば認識が滅す。
認識が滅すれば名前と物質的形態が滅す。
名前と物質的形態が滅すれば六つ感覚器官が滅す。
六つの感覚器官が滅すれば接触が滅す。
接触が滅すれば感受作用が滅す。
感受作用が滅すれば渇愛が滅す。
渇愛が滅すれば執着が滅す。
執着が滅すれば存在が滅す。
存在が滅すれば生が滅す。
生が滅すれば老いや死の苦しみが滅す。

 

縁起は、原因があって結果があるという因果関係を表すものだ、と今では普通言われている。すると縁起と時間とは結びついているのか?しかし、この内容を見ればそうではないように見える。

 

上座部仏教の一切有部では、その瞬間瞬間に現れる法は一つだけだ、という説が唱えられたりもした。

しかし、その後大乗仏教は、それぞれの法は空だと言った。

 

「瞬間瞬間に現れる法は一つだけ」という考え方は、何かわかるような気もするのです。コンピュータがそうだ。あれだけ複雑な演算をしながら、その瞬間に処理されているのは一つだけである。これは英国のチューリングが基礎理論を作ったのでチューリングマシンなどと言われている。

今はなくなったけど、ブラウン管のテレビもそうですよね。ビームは1本しか出ていない。それがいろいろな方向に偏光してまるで平面の像を作り上げる。

しかし、これはまさに原子論なのです。それ自体がそれ自体としてある、ということです。

大乗はそれに反発した。それもわかるような気がする。それにはそれ自体(自性)はないよ。空です、というわけだ。

 

だけど、実はお釈迦様が唱えられた「縁起」はそうしたことを言い尽くしていたのではないか。実は縁起で完璧だったのでは?

 

何もそれ自体としては存在していない。依っているのだ。お釈迦様の仰ろうとした縁起は時間的なものではないと私は思う。仏教徒の言う悟りというものを経験すれば、必ず、世界は別々のものからできているわけではない、原子論で成り立っているわけではないというのを見る。そうすると、個々のものというのはどう存在しているのか?そこに新しい考え方がいる。

個々のものはそれ自体で存在しているわけではない。何かに依って存在しているのだ。空なのかもしれないけれども、単に空だというより、ずっと実際的だ。

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そういう考え方は日常生活の中にはない。普通はリンゴはリンゴとして存在していると人は思っている。そのことをお釈迦様はナーマルーパ(名色、名称と物質的形態)と表現された。しかし、それ自体で存在しているものはない。何かに依っているのだ。

 

このことと、キリスト教が言う神の言葉ということは、自分は同じものだと言っていいと思う。キリスト教でも同じ問題があるのです。人が神という真実を認識できない、光が来ても闇が受け付けないというのは、この世界が平板な空間で原子がそこに浮いているという考えから離れられないから。

世界は世界自体としてあるわけではない。では何があるのか、と言った時に、キリスト教の預言者は自分が見たものを解釈せざるを得なくなって、それは言葉だと言った。言葉によって世界が創造された。世界はそれ自体としてあるわけではなく、それが何なのか知りようもないが一なる源である神がそれを命令しているのだ。

単に空であるというのは、哲学的には優れているかもしれないが、般若心経のようにそれぞれのものが単に空だと言ってしまうだけでは、お釈迦様が仰ろうとした一つ一つのものを一定の理論の中に配置できないのである。しかし、依っているのだということになると、そこには一種数学的な見方が生まれることになる。

 

今の科学にかけているものは、まさにこの縁起であり言葉であるような思想、一つのものは、それ自体では存在していなくて、何かに依存しており、それもまた何かに依存しており、複数の違う物質なり世界なりが重なり合って一つの事象が起きているという考え方だと思う。科学がそれにかなり近いところまで迫ったとしても、基本的な考え方として原子論、つまり自性を持った粒子からこの世がなっていると考えてしまうのだ。

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