証拠は下位の物質への変換である。証拠自体がそのものの存在を証しない。そのものの存在を証するのは理論であり、見ることである。
音はレコードに記録される。レコードは固い物質である。実際の音という物理現象が、レコードの溝という形で記録される。レコードはその音が鳴ったという証拠である。しかし、音そのものの存在は推論に過ぎない。たとえば別の要因でその溝がつく可能性を排除できない。
光は写真に記録される。光という物理現象が、フィルムの物質に化学変化を引き起こしその痕跡を残す。写真はその光があったという証拠である。しかし、光そのものは推論に過ぎない。
楽譜は、音楽家の精神の痕跡である。モーツアルトのような音楽家が心の中で創作する音楽を紙の上の黒いしるしにしたものが楽譜である。
本当は、「認識」そのものが、そのような変換である。目の前に確かに何かがある。私たちはそれを黙って見ていることはない。必ず、認識する。その時多くの人はそこに物があって、それを自分が認識すると思っている。そうではない。
目の前で起こることはずっと起こっている。認識は、つまり「ある」と判断することは、本当にあるものに対する下位の物質への変換である。それが過去、それが未来、それが恐れ、それが希望なのだ。
そして、その変換を感情が利用する。欲、見え、周囲から自分がよく見られることへの快感。
そのエネルギーの流れを変えることによって、人は見る。