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多分、信仰を持つより大きな開運方法はない (2)

「占い」と一言で言ってしまうけど、それを受け取っている人の理解は全く違うかもしれない。

 

世界の前提は人によって全く違いうる。

ある人は現代人の多くが当然のことと思っている、物理的な世界がすべて、学校で習う理科の授業がすべてだ、という前提のもとに占星術を受け取るだろう。そういう人は占星術が当たると気が付いた時には、星の影響が物理的な肉体にどう働くのか云々という観点で説明をしようとするだろう。

ある人は、心理学を学んで、心理的なアプローチから占星術に取り組むかもしれない。

あるいは、ある人はお化けが見える人かもしれない。お化けが見える人は、お化けと土星がどう関係しているか、という観点から占星術を見るかもしれない・・・いや、これは冗談で言っていると思われるかもしれないが、西洋での「蝋人形の呪い」のときには、土星や月の位置などを気にする云々という話はあるのです。

人生に対する取り組みの違いもあると思う。散々難しいことに挑戦し、その願いをかなえるためにあれやこれやの縁起担ぎをしてきた人は、なかなか思うようにはいかないということを肌身に感じているかもしれない。

 

人生の前提は人によって大きく違いうる。それで「兌宮、つまり西の方向に黄色いものを置くと儲かる」的なことだけが、開運につながると考えるのは多分無理がある。その人は日常生活で散々悪いことをしていたり、部屋を散らかしていたり、商慣習にそぐわないあこぎな商売をしていたりするかもしれない。あるいは霊が見える人から見たら、霊的には全くダメなことをしているかもしれない。

 

その世界の見方、生活習慣、哲学、様々な前提というものをひっくるめて考えると、結局のところ、世間が言うところのいわゆる「信仰を持つ」的な何かがあったほうが手っ取り早いのです。自分は立場上は教会が用意してくれているから、というべきなのだろうが、あまりにも硬直したものではなくて、あれやこれやの理解、漠然とでも自分の中で「これが大事なんだ」と自分の芯を持っていられるような、そういう力というか潜在的な継続性というか、そういうものを持っているべきなのです。

 

毎日、おんなじお祈りでいいから必ずそれをする。ある一定の周期でどこかにお参りする。京都にいるとき大文字山なんかに「大文字山2千回登頂記念」なんてお札を立てている人がいたけれども、そういう継続的な肉体的努力をする。決して陰で他人の悪口を言わないと決めてそうする。

そういう小さなことが積み重なって、最終的には「次の月が天王星とスクエアになるときに事故に遭わない」的なことがもっとも実現するのだと自分は思います。仮にそこで、誰かが「どこそこの方角に行けば助かる」とアドバイスしてくれたとしても、何もなければそのアドバイスを引き込むことすらできないから。

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