何のことかわからない人が多いでしょう。
ヨハネの福音書の第一章3節で
πάντα δι’αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρίς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὁ γέγονεν.
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(日本聖書協会訳)
と言われている。その「ὁ γέγονεν」ホ・ゲゴネン、できたもののうち、という言葉です。
これは実は当初問題になった箇所で、このὁ γέγονενはこの後に続く言葉についていて、「この中にできたものに光があった」と読まれていたが、色々な論争で、「一つとして」を修飾しているという説が支持されたのだった。
自分は、実はこの新しい考え、つまり今の読み方に、いまいちピンと来ていなかった。その状況を見ていて、光が生じたと表現していたとしても、必ずロジックを追いかけて光は創造されたと言わなくていいのではないか、みたいな。
だけど、ふと思い立った。このγέγονενは「成った」という意味合いである。作られたと言えば作られたではあるが。
たとえばγεγονόςという単語がある。これも「なったもの」という意味ではあるが、現在英語のfact、事実に相当する単語として使われている。
結局「作られた」と訳すから問題なのだ。その創造というのは、どこか知らないところで、いつか知らない遠く昔に起こったこと、と考えるから間違える。そうじゃないんだ。
これは簡単に言うと森羅万象、山川草木、牆壁瓦礫のことだ。目の前で起こっているすべての現象のことなのだ。
東洋人は唯物的な考え方をしないで、目の前がそのようになっている(実相)という言い方をする。そういう言い方をするならば、森羅万象をそのように見せているのが、言葉である。目の前のあらゆるものが、それによらないものは何もない、ということを言ったときに、ギリシャ語的にピタッとくる言葉がἐγένετοだったりγέγονενだったりした、ということに過ぎないのだ。
いやまあ、それだけなんですけど・・・
本当にそうです。
「万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」
いいですねえ。
言の内に光があった。
森羅万象、すべて神により造られた。
「空の鳥、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが天の父は鳥を養ってくださる。」
そして、鳥も花も、必死で生きているのです。
必死で生きて時が来て、死んで行く。
人間もですよね。
近頃、思うんですよ。
昼の再放送テレビドラマCMでよくやっています。
・・「500万くらいは残しておきたいから~」~
・・「子供に迷惑掛けたくないから、~、」~ドンチャカドンチャカ、、。
これを、なんとかいう俳優さんが、浪花節口調でやるんですよ。塩辛声でね、、。
何度も何度もやるんですよ。
そうして、不安を煽っている気がするのです。
私、何も出来てない、、どうしよう!!!てなわけで、、。
すると、何? 子供に、500万預金や、何かを残してやらない親は、親失格なの?
人様に迷惑かけないで死んで往く方法ってありますか?
いつ何時死んで往くかわからないのに、自分の死体の処理、自分でどうやってするの?
山奥で一人ひっそりと死を選ぶ?
後日、遺体が白骨化して発見されたら大騒ぎだよね。
子供が親の面倒を看る。
親は子供を、慈しんで育てていく。
わが身に代えてでも育てていく。
それが生きとし生けるものの有様でしょう。
断捨離、?
今の流行りですかね。
人は思い出の籠る物はそう簡単には捨てられないと思います。
性格にもよるとは思いますが、、、。
断捨離できない者はダメみたいに言われている。
そうして、これも不安を煽っている。
何かの本で読みました。
「親の残した多量の写真や、親の残した遺品の処分に困っている」
(かわいい子供や孫を慈しんで写した写真だと思うけどな。)
とすると、品物は一切残さず、お金のみ残して、ドロンと霧のように消えるのがよろしいのか?
まあ、それはさておき。、
お金を沢山稼げる人も
この世のお金を稼ぐことのできない人も、
神の御前には同じであるのでしょう。
今はあまりにも、人間の価値が労働力やお金で評価されて、
役に立たない人間はダメみたいにいわれすぎていると思う。
ネコさん、こんにちわ。
結局周囲にものすごく影響されているんだとは思います。今は情報過多の時代だと思います。
必ず最新の本を買わないといけないということはない、と思う。毎月毎月、大変な数の本が出版されます。
一通り、自分に大事な、古典の本、昔から誰もが読んできた本を読んだか?というと、それもおぼつかないのに、次々とああすれば痩せられます、こうすれば幸せになります、というのが本当に必要かどうか。
お子さんやお孫さんがいること自体は、素晴らしいことだとは思います。できない人には申し訳ないですけど。
たとえ、残せるものがなくても、片づけてくれる子供がいるというのはそれ自体が大事なことだとは思います。