所謂データで判断するということ。ある場合にはとても正しい。とても有効な手段であり得る。
しかし、データでしか判断できないということになると、これは非常に小さな、貧相な、未熟な世界になってしまう。
コーヒーは一時期健康に悪いものと言われる風潮があった。目覚ましにいいのと、利尿作用がある、しかし胃に悪いしカフェインもよくないというわけだ。ところが最近、コーヒーを一日5杯ぐらいまで飲む人は、全く飲まない人に比べて死亡リスクが低いという研究結果がアメリカで発表された。
研究結果はその後もいろいろに発表はされている。
だが、判断基準はそれだけしかないのだろうか。一言でコーヒーと言ったって、いろんなものがある。焙煎のきつい濃いコーヒー。焙煎の浅い酸味のあるコーヒー。あるいはキリマンジャロもあればサントスもある。淹れ方だって、ドリップもサイフォンもエスプレッソもある。仮に同じ淹れ方だとしてもドリップやサイフォンの混ぜ方の加減ひとつで、刺すような苦い味が出てしまうコーヒーもあるし、逆に水みたいでうまい味の出ていないコーヒーもある。
これだけ、長い歴史で人類に愛されてきて、四苦八苦して美味しい味を出そうとしているコーヒーが、とりあえず良いとか悪いとか、そんな判断ができるものだろうか。ひょっとするとAさんのいれたコーヒーを飲んでいる人は長生きして、Bさんのいれたコーヒーを飲んでいる人は、短命かもしれないではないか。
せっかく「うまい」という判断があり得るのに、うまいものが全く健康に逆行するかもしれないと考えてしまうのは、どうもおかしいように思う。これはうまい、だけどカフェインが入っているからダメ、こちらはどうしようもなくまずい、だがカフェインが入っていないから良い、そういう判断は片手落ちではないのか。
そのほかのことも、どうもデータだけで判断してしまうのはどうかと思うようなことは沢山あると思うのだ。実は、さまざまな感覚や感情から私たちの常識はたっぷり積みあがっていて、データで判断しているのはほんの一部分にすぎないと思う。