正しい方法、正しい教義、正しい考え方、そういうものを我々は通常前提する。
自分はここまで来た。
だがこれは教会のいう教義から言うと間違っているかもしれない。常にそういうことを自分も考える。
とんでもない達成をした人がいる。誰でもいい。偉業を成し遂げた人。空を飛べるようになった人。癒しの業を身に着けた人。何も食べなくても生きていける人。そうした人は、正しい方法、正しい教え、正しい教義、正しい考え方を信奉していたから、その達成ができたのだ、と私たちは考えたい。
しかし、そうだろうか。
私たちが聖人伝を読むと、たいていは本の4ページぐらいにまとめられる内容しか載っていない。たくさん調べて書いたとしても、おおよそ本一冊の内容ぐらいのものだと思う。そう、フランチェスコの聖人伝のようなものはいろいろ出ているじゃないか。
しかし、それで何がわかるというのだ?その人が、あの日あの一日悩んだこと、体験したことが尽くされているだろうか?・・・それでも大事なことは書かれているのかもしれない。だが彼の考えたことすべてがそこに尽くされているといえるだろうか。彼の理解がすべてその一冊で伝わるだろうか。
もしフランチェスコの理解がフランチェスコの伝記一冊で尽くされるのならば、その本を読んだ人の何人かは聖痕を受けたり、オオカミと話をしたりするかもしれない。
彼らは伝記には書かれていない、全く我々のあずかり知らない景色を見たかもしれない。その景色と伝統の教えの食い違いに悩むようなこともあったかもしれない。彼の目の前にはリアルな光景が広がっているのだ・・・文字に伝わったものなどそこでは色あせたものにしか見えないかもしれないではないか。しかし人は言うだろう「お前の見ているものは間違っている!」
自分でも自分に対して今まで何度も言ってきたことなのだが、山頂にのぼった景色は山頂にのぼった人しかわからないのだ。
そういう意味で、私は私を信じなければならない。私が見た景色、見ている景色、見るであろう景色を大事にしなければならない。