人生は有限の何かで出来ている。そう思う。
それは、私自身の人生の経験もあるが、ふと思う。
ブログ村みたいなところがある。
様々な方のブログを見た。
私自身、ブログというシステムが出来る前からホームページで情報を発信していたし、複数のテーマでブログを書いてみた。
自分自身の取り組みがブログというシステムを通じて発信される。
ある人は、ある職業についていて一定の時間に勤務し、一定の家族を持っていて、一定の時間に一定のテレビを見て、一定の考えを持つ。
ある人には家族がいないかもしれない。ある人には愛する人がおり、ある人にはいない。子供がいる人もいれば親がいる人もいよう。一人で生きていく人もいるだろうし、助けてもらって生きる人もいるし、人を養っている人もいる。
子供がいれば、子供の世代の話題についていくことになるだろう。親がいれば、親の世代の話題を知ることになるだろう。
東日本大震災。被災された方は気の毒だと思う。いまさら放射能が米から発見され、メディアや学者や国は常に放射能被害を過小評価している。憤りを感じるべきだろうと思う。
そうなのだけれど、もしそれが来なかったらどうか。
夜になるとお気に入りのテレビを見て、いつもの家族がいて、会社に行って定年を迎えて・・・それが幸せな人生だったかどうか。
それはあくまで個人的な問題であり、わからないと思う。
太平洋戦争のとき、お国のためと思っていた人が、終戦後自分のすべきことを見失った。
そのとき、多くの人に同時にそれが起こった。それまで、何をしていたか、ある意味問われなくなった。
だが、大震災や戦争がなくても、個人的にはそういうことが起こることはある。何かのきっかけで、それまでの人生のすべてを見直さなければならないようなことが起こる。そういう契機で、たとえば自殺したりする人もいるかもしれない。そこで生き残ると、生き残るという選択をしなければならない。理由は後でよろしい。まず、生き残るということ。
多分、誰もがそういう変化を経験するわけではない。だが、一度経験すれば、違う人生が存在するということが分かる。
大方の場合、ブログに書かれている人生は、ある人生だ。わからない。案外その人はあれもこれも知っているけれども、あえてそのことだけ書いているのかもしれない。そういう人もいるかもしれない。しかし、大方のブログは、大体その人の考えだし、その人の人生だ。
時間を、取り組むことに使うことが大事だと思う。受動的にではなく、目的意識を持って時間を使うということ。