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信じなければならない (5)

夢について、何らかのコントロールをする、夢の中で自覚を持つ、あるいは夢を見ているような状態に入る、ということはなかなかできない。その部分については理屈はない。

他の様々な宗教的な体験においても、多くの場合、説明の上では、そこにたどり着くのは一見不可能であるように思える。そこで、多くの宗教では「神様が与えてくださった」的な言い方をする。
仏教の世界で浄土真宗さんでは絶対他力で、阿弥陀様が絶対救ってくださるのだ、というような言い方をするが、禅では自力が強調される。しかし、自力が強調されるその内容というのは「非思量(思い量るのではない)」というような世界である。いったい思っているから私であるのに、思わないとすると、私が「そうなりたい」と思っている間、そこを思量することはできないわけで、「よし、ま、頑張ってやりましょう」的な努力でそこに到達することができないのです。

でも、多くの場合、宗教が説明しているそうした何かというのは、存在しないわけではないし、なにがしかの真実を含んでいる。簡単に言えば、ある。そのために宗教が要求することは多くの場合理不尽なことである。毎日何回このお祈りをしましょう。線香何本か燃え尽きるまで毎日坐禅しましょう。1000日間山の中を走り回りましょう。普通なら決して行うことのない行為の十分な強さを持って行われた繰り返しが、何らかの力を生み出す。

 

信じるということは、意識の新しい点、別なところに踏み出すことだ。その踏み出したことが、力を生む。キリストを信じた人は、千日回峰行をしなかった。坐禅をしたわけでもなかった・・・本当は知らない。キリストがペテロに座禅みたいなことをさせていたのかもしれない。それは、まあ聖書には書いてないわね。しかし、とにかく初めて会った人でもキリストに会って、言われた通りに信じると、期待された成果を十分手に入れた。

 

あの~、別になんでも鵜呑みに信じればいい、といっているのではないのです。毎日の中での懐疑的な態度、いぶかしく思うこと、ああでもないこうでもないと悩むこと、それは、たとえば夢の中のようなあちら側の世界で、一歩何かを踏み出すことに対して、ブレーキの役割を果たしている。あれこれをうのみに信じるわけではなくても、懐疑的な態度を改めることはできるはずだ。

 

リラックスしていることができれば、人は自然に多くの必要な何かを手に入れることができる。何かについての理解もそうだろう。何年も思い出さなかった重要な記憶のようなものもそうだろう。

そう、私は何年もギターを弾いていない。ギターを信じられなくなったのだ。歌はあった。だが、聞くべきものはできるだけ選ぶようにしてきた。ギター音楽も聞かなくなった。ギターを弾くということは、多くのいわば「支払」が要求される。ギターを所持していないといけないのは当然だが、今はない。爪を磨かなければならない。弦を変えなければならない。一日数時間も練習すれば、3日ほどでスチール弦が鳴らなくなる。響きが悪くなるのだ。それで、洗剤で洗って上下を張り替えるとしばらくなったりする。そして、練習するということはそれに対して自分の時間をとことん費やすということだ。将棋にハマっている人が、次の一手を頭の中で常に考えているように、ギタリストは常に次の指の運びを考えている。そうしたものはすっぽり自分から抜け落ちていた。

それなのに、先日記事に書いたようにふとバッハのことを思い出した。すると記憶の洪水みたいなことが起こる。そういうことは多分誰にでも起こることだ。

 

正直な人生では、人間の意識は柔軟性がある。たぶん。嘘をついたり、大きなトラウマみたいなものがある人は、自分の意識の中で避けるものが出てくるだろう。しかし、そういう大きなことがあまりない人であっても、常に何かに対して懐疑的な考えを持っている人は、多分来るべき時が来ても、重要な一歩を踏み出せないと思うのだ。その懐疑的な考えが、夢の側、あちら側に常に影響を及ぼしてしまっているのである。

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