クリスマスパーティーで出し物をしないといけない、云々で、ギリシャ聖歌を披露しようと思ったのだが、これはこれで大変なんですよ。基本的な音階が12平均律では、つまりピアノではとても演奏できないような音階に基づいている。なぜか、みたいなところから始めないといけない。
キリスト教が伝えている知識は、世界を一見キリスト教が席巻したかのように見える事実とは裏腹に、非常に知られていない。そして、教会はそれを伝えるためのある意味完璧な箱を用意した。厳密な音楽理論、神学を反映した歌詞、言語のアクセントや区切りに対応したメロディー。そして、それが伝えようとしたものは、膨大な量に上った。
おそらく東ローマの栄えた昔、そうした神学や音楽に通じ、不可思議な謎を解き明かした人々がコンスタンチノープルの都にわんさかいたに違いない。
そして、イスラムの支配に耐え抜いたギリシャの人々はそうした伝統を何とか今の世まで伝え続けてきたわけだ。
だけど、あまりにも膨大すぎて、多分ローマの昔もそれを維持するのは大変だっただろうと思うのです。社会的にそれだけの費用や労力を割かなければいけないのだから。
そしてそこで伝えられている概念が現在の言葉となじみがない。
たとえば昔の人が「光」とか「命」とか呼んだものに対して、ひょっとしたら現代人は「意識」とか違う言葉を好んで使っている。
知られていないが知識があるということば認める。キリスト教だからこの事実が明かされているというその事実そのものは、世間に出回っていないものだ。しかし、その糸口となる言葉自体も時代とともに全く変わってしまっている。語彙や一般的な教養のベースとなるものが変わってしまっている。
そうした中で、たとえば、たとえばだけれども、ニコライ大主教は箱モノを完全に用意するというやり方でスタートした。そうするしかないのです。つまり、聖堂を建てて、祈祷書を訳し、司祭を養成した。それは正しい選択なのかもしれない。
だけど、本当にそうするしかないのか。