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今から書くことは、普段自分がやっていることと矛盾するケースもあると思います。自分ではそう思うのですが、「お前、それおかしいやん」というツッコミありということでお願いします。

 

というのは、こういうことです。

他に占いの手段みたいなものはあってもいいと思う。自分が身につけるという意味で。
占星術はこうだ。わかった。しかし、たとえば人相みたいなのも習熟してもいいじゃん。星を見れば見たで、こういう判断ができるけど、この人は鼻と頬がふっくらしているから金運がいいとか、職業これだろうなとか、こういう問題を抱えているんだろうなとか。多かれ少なかれ普通の人もパッと見た感じの顔つきで多くのことを無意識に判断していると思う。

手相でもそうです。この線が上向きだったらこう。これぐらい長生きする。これぐらいの時に問題が起こる。判断できるじゃないですか。

 

ただ、それをするというのは、結局のところ「眼鏡がないと変身できないウルトラセブン」になってしまう。

 

シャーロック・ホームズも同じことをやっている。袖口がどうだからこいつはインドからきたやつだ。背広の生地がどうだからどういう階級の奴だ。ある目に見える印象を心の中で変換してある情報に置き換える。人相では、背広の生地や肌の色やカフスボタンや靴の色である代わりに、頬のふっくら度合や耳たぶの大きさに変わっただけだ。そこには、判断する私の思考上の推理というものが働く。

 

ただ、それはやっぱり本来あるべき姿ではないとは思う。無限に思考の容量を増やすというやり方は、最終的には何の結果も生まない。

占星術が多少優れているのは、占星術が当たるということそのものより、占星術をすることによって、人間の生活と大きな法則を結びつけて考えることができるという点にある。しかし、いずれにしても、「星でこうだから、こうであるはずだ」みたいな考え方は本当は良くない。そこには「でも本当はどうなの?」という何かが残ってしまう。

本当は、エリセイがハザエルにそうするが如く、瞳を定めてそいつを見れば何がどうなっているのか次から次に浮かんでくるというのが本来の姿だとは思います。

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