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動きの認識

前にも似たようなことを書いたことがあったのだけれど、昨日ふとその回答がわかった。

つまり、「ものが動くにあたっては2点というものが前提されているはずだが、先ほどの点というものを実は今の観察者は観察していない。今・今の観察者は、今のそのものしか観察していないのに、なぜ動いていると分かるのか。過ぎ去ったその点はどこに行ったのか。」ということだ。

通常我々は、観察者が時間的に離れた2点を比較することによって動きが認識できると考える。その動きというのは数学的に言うと「速度」ということになるだろう。方向とかもあるから、ベクトル量になるのかもしれないけど、基本的な考え方は、一定時間に動いた距離、というわけだ。

これ、移動距離、つまり空間の位置を逐一記録して、そのグラフの傾きを求める、いわゆる微分のやり方だ。でも、微分を習うときでも、A点とB点が理論上は離れているんだけど、限りなくゼロに近く近づいたらどうか、ということで速度を求めるわけだ。

だが、実はA点とB点を同時に観察できる観察者はいない。なぜかというと観察者も時間的に離れた2点にいるということは不可能だからだ。A点をB時の観察者が観察することはできない。Aはどこに行ったのか?Aが観察できないなら、なぜ動きとか速度が認識できるのか?

 


それに対する答えは、「動きの認識はそれ自体で存在し、ものがあるということ、場所や位置の認識より本質的である。」ということだ。今の瞬間、2点がなくてもそれが動いていると観察者は認識し、その動いているということが場所や位置を生み出す。2点は幻想で、先ほどのものの位置というのは、記憶とか反応とか車のタイヤ痕とか、外部や我々の内部の痕跡に過ぎず、過去自体は存在はしていない。

 

これ、実は何年も前にわかっていたはずのことだ。

要するに、微分して得られるような結果のもののほうが、より本質的に存在しているのだ。場所は動きが作り出す。移動距離より速度のほうが本質的で、速度より力のほうが本質的である。存在してるのは空間ではなくて力で、力が空間を生み出すのだ。

そして、その考え方は、神の考え方や縁起の考え方に合致しているし、まあまあ相対性理論みたいな物理学の発達とも一致していると思う。なのに認識の時だけそれが違うと考えるのは愚かだ。

なんで、こんな簡単なことに気が付かなかったんだろう。

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