結局のところ、悟りというのは材料的にちいさい。仏教的な材料で求道している人にとって、哲学的な内容で真実を見つけるというのは、そんなに多くの事柄に関して知る必要はない。
宗教的なことがらに興味のある皆さん方は、お坊さんのところに学者さんが行ったら、湯呑から茶があふれ出るまでお茶を注ぎ続けた話とかお聞きになったことがあるでしょう?
「老僧、お茶がこぼれます」というと、「そうだ、お前さんの頭みたいだ。あふれるまで何かを考え続ける。」みたいなことをお坊さんが返す。そうでないものを見つけろ。
大事なことは身近な気づきにある。そして、少ない材料で開始して、いわば完璧な回答にたどり着くことができる。沈黙の中に、世界が壊れるのを見、真実を発見する。
師匠にとって大事なことは、彼がそこまで行くために、いわば押し続けることだけだ。
しかし、それは材料的には小さいのです。たとえば、その人がギリシャ語を勉強したりはしない。たぶん、イグアスの滝に行こうと思ったりはしない。
多分、両方いるのだと思う。身近な気づきで完璧な結果を得るということもいる。だが、座禅をしていても、ギリシャ語を勉強する機会があるならしたほうがいい。イグアスの滝に行けるのなら、行ったほうがいい。
2つの選択肢があって、片方が未知のものであれば、常に霊的冒険心を持って未知の世界を選択するほうがいい。今まで田舎で暮らしてきたなら東京で暮らしてみたらいい。今まで人と接して暮らしてきたなら、今度は自然や動物と暮らしてみるのがいい。