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エニアグラムと科学

先日「どれが本質的に存在するのか」という記事を書いた。

物理学をやっている人は、みなアキレスと亀の話を知っていると思う。亀がアキレスより前の地点にいて、同時に走り始めた。アキレスが亀がいるところまで行く間に亀は必ずいくらかは進んでいる。これを永遠に繰り返すことになり、結局俊足のアキレスが亀を追い越すことはできないというものだ。

あらゆることに同じ問題がある。たとえば車が動き始める瞬間というものを考える。最初にかかる力に対して、必ず反作用が働き、それは釣り合っているはずだ。それが釣り合っているのなら、永遠に車は動けないことになってしまうではないか?

 

そこの「ゼロから1になる」ということが、哲学的、数学的にありえないように思えるのだ。確かに数学はそれに適応するために様々な考え方を生み出した。とりわけニュートンによって微積分が生み出された。だけど、それは結果的に計算結果を近似できるのだけれど、哲学的にゼロの1の問題を解決したとはいえないのではないか。

 

だけど、もし力によって距離が生み出されると考えていいなら、その問題は全く変わってくる。場合によってはアキレスは走り出す前に亀を追い越しているのかもしれない。

 

あらゆる現象において、上の力が下のものを生み出しているとしたら。そこには、通常の哲学や科学がゼロから1、1から無限だと思っている関係にある。ありえない跳躍である。しかし、現実の世界ではそれはこともなげに起こっているのだ。

 

そして、上のものが下のものを生み出すときに、そこで従来の連続的な数学ではなく、何か別の数学があって、内的に何か秩序が存在しうるとしたら。それは空間は前提しないけれども、理性的・数学的なものでなければならないのだ。

 

そこで、古代の数学が出てくる。古代の数学にはゼロがない。小数や分数が存在しないというわけではないけれども、思想的に整数である。

一つの光がさしているだけなのに、赤や青に見える。動き出す瞬間、光がさす瞬間に何か人の知らない悪魔の法則が存在していて、世界の多様性を生み出している、ということだよね。

enneagramme2

あらゆる象徴はそういうものだと思う。エニアグラムもまた、そういうものとして紹介された。平板で透明な空間に原子が浮かんでいる世界にはエニアグラムは存在しない。

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